2017年7月15日土曜日

第1回 モノクロームの夢、『デッドマン』

{はじめに}
この文章は、2016年9月30日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第10回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。
今は7月だと言うのに、しょっぱなから唐突に「10月が僕の誕生月云々」と書いているのは、そういう事情です。



私事ながら、10月は僕の誕生月である。なので今回は、僕の一番好きな映画、僕の映画人生を決定づけた映画を紹介しようと思う。その作品は『デッドマン』(1995)。
監督・脚本はジム・ジャームッシュ、主演はジョニー・デップ。そう、あのジョニデですよ、奥さん! ちなみに本作のポスターは、ヴィレヴァンのポスターコーナーに行くと結構な確率で置かれてあるので、ご存知の方も多いのでは。
(顔にペイント施したジョニデが、こちらに向かって拳銃を構えてるアレである)
ヴィレヴァンにポスターがあるように、どうも巷では『デッドマン』をお洒落モノクロ映画として認識しているようなのだが、そんな単純な映画ではないと思うゾ。


舞台は19世紀の西部。会計士のビル、本名ウィリアム・ブレイク(演:ジョニデ)は、ある町に職を求めてやって来るが、門前払いを喰らう。その夜、花売りの娘を助けたばかりにお尋ね者となり、自身も胸に銃弾を受ける。瀕死の重体で町から逃れたビルは、ある一人のネイティヴ・アメリカン、ノーボディ(演:ゲイリー・ファーマー)と出会う……
話の内容は、「ビルが追手に追われながら、死の方へどんどん近づいてゆく」というそれだけ。なのに何故、それだけの話に惹かれるのか。おそらく、ロードムービーに付きものである「ある場所に着くための目的」の希薄さと、映画に漂う「死の空気感」が妙に心地いいからだろう。
ロードムービーは通常、「主人公が或る場所に赴いて誰かに会う為、そこに何かがある為に」移動するのだが、この映画の主人公であるビルには、その「誰か、何処か」という明確な目的がない。
状況を掴めぬまま町から逃げ出し、何処に向かうのか分からず、ただ追手から逃れるためだけ、そしてノーボディという心強い者がいるから森の中を旅する。
ノーボディもノーボディで、ビルを詩人のウィリアム・ブレイク(18世紀のイギリスに実在した詩人)の亡霊だと勘違いし、敬意を払い、彼を魂の故郷へ還すため森を案内しているに過ぎない。
ビルたちがどこへ向かうのか、我々観客はビルと同じように分からずじまい。だが中盤、ある変化が訪れる。

こんなシーンがある。ビルは道中、死んだ仔鹿を発見し、その仔鹿から流れる血を自らの顔にペイントの如く施し、寄り添って身を横たえる。このシーンの美しさといったらないのだが、このシーンを境に、ビルは命が残り少ないと悟りながらも旅を続け、追手や無法者たちを事もなげに殺していく。まるで神話の登場人物のように。
もはやこの頃になると、自分がお尋ね者であるという現実に抗う様子もなく、前半のように挙動不審で常に何かに怯えているような態度でもない。
ビルは「胸に銃弾を喰らう前」の健康体である時より、「喰らった後」の「死がどんどん近づいてきている状態」の方が生き生きとしていくのだ。

「死」がビルを覚醒させていくように、この映画の中では「死」という概念は一般的な「怖いもの」「悲しいもの」とは違い、「生きとし生けるものが当たり前に辿る、純粋かつ崇高なもの」として描かれる。
森を歩けば仔鹿の死体が当たり前のように転がっているし、銃で撃たれれば人はアッサリと死に、ノーボディ(をはじめとするネイティヴ・アメリカンたち)は「死」を魂の還る儀式だと認識している。死は、何時でも何処でも誰にでも存在する、とても身近なものだ。
僕は昔から人一倍、生きているもの全てが必ず迎えることになる「死」というものに怯え、その不条理さを恨み、涙を流す事が多かった。まだまだ(今もなお)幼い僕にとって、「死」はずっと先の事である(はずだ)にも関わらず、否、先の事であるが故に、「恐怖」でしかなかった。
そんな僕にとってこの映画は、ちょっとした薬のような作品でもある。
前向きになるとまではいかないが、この映画の中で起こる突発的な死、誇張の無い死に、僕はどこか救われるのだ。


ロードムービーであるから、ロビー・ミューラーによるモノクロ撮影が美しいから、ニール・ヤングの音楽が痺れるほど格好良いから、ジョニデのベストアクトだから、ジャームッシュの放つ(ブラック気味の)ジョークが最高だから等々、この映画の魅力は尽きないのだが、この映画の「死の捉え方(と、その描かれ方)」にある意味励まされているからというのが、僕がこの映画を一番愛する理由なのかもしれない。



イラスト:城間典子