2017年10月31日火曜日

第4回 山形国際ドキュメンタリー映画祭2017の備忘録。

10月4日から10月8日まで、僕を含めた4人の仲間で山形に行ってきた。目的は山形国際ドキュメンタリー映画祭2017。
みんな思い思いに様々な作品を観たようで、たった2日間の間だった(4~5日、および8日は車での移動だけに費やしてしまった。運転手は僕一人だった……)が、充実した時間を過ごせたと思う。
今回は、その映画祭で観た映画たちの感想をチラホラと書く事にしよう。とは言っても、観た作品のほとんどは佐藤真作品なのだが!



『阿賀に生きる』(1992)
何と言ってもコレを山形で観たいとずっと思っていた。

何度も観ている作品ではあるものの、いつ観ても人々の表情の映し方に感心する。
「新潟水俣病の映画」として企画されていたはずの映画が、「阿賀野川の川筋に住んでいる人たちの生活を見つめた映画」として誕生してしまう。正に「ドキュメンタリーは生き物」ではないか!
出てくる人たちほとんどが新潟水俣病の被害者であるにも関わらず、日々を喜々として過ごしている。
土方工夫の唄、継承される川舟作り、元気な餅つきお爺ちゃん、雨の中も田んぼで作業をする老夫婦……
出てくる人みんなの顔が、声が、動作が、そのまま阿賀野川の歴史なのだ。これぞ、生の讃歌。
もうオープニングから泣かされてしまって……



『まひるのほし』(1998)『花子』(2001)
この2作品は今回が初鑑賞となった。どちらも「障害者によるアート」をテーマとした作品。
『まひるのほし』は様々な知的障害者と彼らの作る作品をオムニバス映画ように映し、『花子』では夕食後に「食べ物アート」を欠かさない花子と、その家族を追っている。
正直言って、感想を書くのに戸惑ってしまう2作品だ。
両者とも「知的障害者」がテーマとして前面に出てくるからか?そうとも言えるし、それだけでないとも思いたい。
愉快な作品だと思うが、ある種の距離感も感じる。
愛おしい作品でもあるが、それだけに終わらせていいのかという思いも湧き上がってくる。
時々ハッとしてしまうようなショット(『花子』における、お姉さん初登場のトコとか)が出てきて、面食らってしまう。


たいがいにおいて僕は、ドキュメンタリーを観る時、「こういう人もいる。こういう世界もある。世界はこんな風に動いている。」という世界認識をしながら観ている。
そして、どこで「優れたドキュメンタリーであるか」を見出すのかと言えば、映し出される人々の表情や風景を、作り手が的確に捉えられているか、である。
その点で言えば、この2作のみならず、佐藤真作品はどれも「優れたドキュメンタリー」だと思う(とは言え、未だに「エドワード・サイード OUT OF PLACE」(2005)のみ未見なのだが)。
だが、この『まひるのほし』と『花子』の2作は、そんな次元を超えて、もっと自分のプライベートな部分に引っかかる作品だった気がする。

映画を通して僕は何故か、決して劇中の彼らと交わるはずのない故郷、大分で出会った数々の人たちを思い出していた。


この2作品の撮影として、小川紳介の『日本解放戦線 三里塚の夏』(1968)や、一連の土本典昭作品のカメラマンとして有名な大津幸四郎を起用しているのは興味深い。
佐藤真の遺作となった「エドワード・サイード」も大津さんらしいのだが、そちらは未見なので何も言えず。



『我が家の出産日記』(1994)『おてんとうさまがほしい』(1994)
『我が家の出産日記』は、ずっと前から観たい作品だった。なんせDVD化がされておらず、特集上映の時に上映されるかされないかくらいの作品なのだから。
近頃では、セルフドキュメンタリーが大流行りしている。本作はその元祖的な作品のような気がする(だがもっと探っていけば、その流れの中に小川紳介や原一男を見つける事が出来るのだろう)。


話は、佐藤真(以下、佐藤さん)の奥さんである丹路(にじ)さんが次女(萌ちゃんと名付けられる)の出産のために入院し、残された佐藤さんと長女の澪ちゃんだけの生活が始まる……というもの。
文章くらいでしか佐藤真という人物の人となりを窺えなかった僕としては、最初から奥さんにタジタジな佐藤さんに笑ってしまい、かつ淋しさを覚える。

家と保育園と病院を行き来し、慣れない子育ての時間にアタフタしている佐藤さん。その慌ただしく、特別な、幸福な時間の流れに、思わず泣いてしまう。
後年、死を迎えてしまう佐藤さんの事を思うと、「何故……」と思ってしまう。
「人ん家の出産にまつわる一週間の出来事」と乱暴にまとめてしまうのは簡単だ。
しかし今作は、それだけに収まらない幸福な作品であるし、佐藤真自身が、自身とその家族を撮り、「撮る自分、撮られる自分」に意識的に向かい合った、とても重要な作品だとも思える。


『おてんとうさまがほしい』は、照明技師として映画界で活躍してきた渡辺生さんが、アルツハイマーの症状が出始め、介護施設に入らざるを得なくなった妻、トミ子さんを16mmカメラで撮影した作品。
カメラを回したのは渡辺さん本人なのだが、佐藤さんは今作の構成と編集に携わる。
結果生れたのは、渡辺さんの妻に対する愛とまばゆい光に満ちた作品であったと同時に、まぎれもない佐藤真作品であった。驚くべき作品!
佐藤さんはこの作品を編集しながら、「映画は編集室で生まれる」という信念を持ったそうだ。それも納得。


僕が佐藤さんの作品を好きなのは、少し前にも書いたが、人の表情と風景の映し方があまりに見事だからだ。
下手なドキュメンタリーほど風景はおざなりで、単に「どこそこで展開される話ですよ」という説明的ショットか、もっと悪いと風景なんて知らんと言わんばかりに風景を映し出さない作品もある。
場所の説明だけなら、確かに映し出す意味はない。例えば『阿賀に生きる』における阿賀野川周辺とは、ただ「かつて新潟水俣病の舞台だった」のではなく、「そこに暮らしている人々が日々見ている風景、一緒に共存している風景」だ。
風景に少しでも変化があったりすれば、そこに住む人の顔も自然と変わっていくものだ。
たとえ作品舞台と違う風景が入り込んできても、それは人物の心象風景であったり、作品のカラーを決める重要なショットだったりする。
佐藤さんの風景の切り取り方には、そういった意識が絶えずある。この作品にもだ。
渡辺さんもトミ子さんも年を取っている。しかし、渡辺さんが撮影し、佐藤さんが編集したこの作品を観ていると、何と若々しい感性なのだろうと驚く。アルツハイマーにかかった妻を撮影すると聞くと、暗くなりがちになってしまうが、この作品は「哀しさ、淋しさ」だけに終わらない。

若い頃だけじゃない、昔を振り返るだけじゃない。今こうして妻と向き合う時間こそキラキラと輝き、大事な時間なのだと語りかけるような、そんな作品だった。


『天竜区奥領家大沢 別所製茶工場』(2014)
今回の山形国際ドキュメンタリー映画祭において、佐藤真作品以外で観た映画は、コレと松本俊夫の短編特集のみだった。
この作品も存在自体は以前から知っていたのだがなかなか観れる機会がなく、逃すまいと観に行った次第。
ところが僕は、この作品の監督である堀禎一が今夏に亡くなっていた事を出発前くらいに知った。現在順次公開している『夏の娘たち~ひめごと~』(2017)が映画好きの間で密やかなフィーバーをしているので、当然のように堀監督もご存命だと思い込んでいたのだった。
(ところで、『夏の娘たち』の京都公開は一体どうなっているのだろう。京都シネマの公開待機作品であったのに、いつの間にか消えてるし!はやいとこ上映してくれよ!)


舞台は静岡県浜松市の最北部、標高740mにある斜面集落、大沢集落。
何とこの映画、凄まじい急勾配での茶摘みに始まり、それを乾燥させ茶葉にしていくという工程のみを64分、見せ続けるだけの作品なのだ!
台詞(というよりは日常会話)も必要最小限かつボソボソ喋り、かつ1ショットがと~っても長く、「大丈夫かな!?(体力的に)」と心配してしまうのだが、どっこい魅せてくれる映画だった。
何よりも、画面の構図がキマっている。どこに人がいて、どこに物があると映画らしいショットになるかを、堀監督は熟知しており、「えっ、そんなところにカメラが!?」と思うと同時に、正に「映画でしか出来ない、見られないような完璧なショット」となっている。
画面に映る犬の名俳優っぷりと言ったら!
なので上映時間である64分間は、ひたすら驚きの連続だった。

あまりにも完璧なので、ちょっと癪に障ると言うか、優等生的にも感じてしまったのだけれど。
ともあれ、他のシリーズ作品も早く観たい。しかし、もうこの監督の新作は無いのだと考えると、やはり淋しい。



機械なんかを撮る時のメカっぷりを魅せつけてくる感じは、どことなくダリオ・アルジェントの作品のようで面白かった。
あの監督も、まったく本筋に関係ないのにメカ描写に力を入れるからなぁ……




ざっとではあるものの、山形国際ドキュメンタリー映画祭2017で観た映画たちを振り返ってみた。
ホントは他に松本俊夫の短編特集や、『阿賀に生きる』に関するスペシャル・トークイベントなどもあったのだが、長くなること必至なので、ここで終わろう。
遠い山形の地で佐藤さんの映画ばかりを観たのは、やはり佐藤さん自身にも思い出深い山形で、彼の作品に触れたいと思ったからだ。
連続鑑賞する事で佐藤さんの軌跡を多少なりとも辿れた気がするし、各作品上映後にあったトーク・イベントに登壇した若い人たちの話を聞いて、佐藤さんが如何に後世の人たちに影響を与え続けているかを垣間見れた。
ドキュメンタリーなるものは、つくづく生き物なのだと、改めてその奥深さに気づかされた数日間だった。

(本当は、8日に上映された『SELF AND OTHERS』と『阿賀の記憶』の2本上映に一番行きたかったのに、その日の朝早くから出発せねばならなかった。
僕は数多くのドキュメンタリー映画の中で特に『SELF~』が大好きなので、それを観られない悔しさと恨めしさと言ったらもう……)

2017年10月1日日曜日

第3回 『散歩する侵略者』が、最高に面白いSF映画だった事に対する喜びと興奮について。

たまには、劇場で観た新作映画についても語ってみねばならない。映画好きというのは、懐古主義では駄目なのだ!
そんなワケで、今回ご紹介するのは黒沢清監督の『散歩する侵略者』(2017)である。

劇団イキウメの舞台が原作であるこの作品を黒沢監督がどのように料理したのか、期待と不安が半分ずつという面持ちだった。
何故そんな心境だったかと言うと、僕は大学生時代に、劇団イキウメではなく、他の劇団によって上演された『散歩する侵略者』を観ており、その時の感触がヒジョ~に良くなかった(個人的にノレなかった)のと、黒沢映画に対して「好きな作品も多いけど、いつも同じことばかりしている」というマイナス・イメージを抱いてしまっているためだった。
果たして……



真ちゃんこと加瀬真治(演:松田龍平)は、突然別人のようになって妻・鳴海(演:長澤まさみ)の前に現れる。戸惑う鳴海をよそに、真治は会社にも行かずに散歩をし始める。夫に何が起こっているのだろう?
その頃、一家惨殺事件を取材しようとしていたジャーナリストの桜井(演:長谷川博己)は、天野という謎の若者に遭遇。彼が探しているという女子高校生・あきらは、桜井もまた追いかけようとしていた人物であった。共通の目的を持つ2人は、あきらを一緒に探し始める。
そして彼らを取り巻く世界は、徐々に変わっていくのだった……



冒頭、何でもない一軒家に女子高校生が入っていく。
このショットだけでも「さぁ。これからとんでもない事が始まるぞ」と言わんばかりの、黒沢映画独特の空気が蔓延している。
(過去に彼が監督した『復讐 運命の訪問者』(1997)を思い出させる。これは黒沢監督の十八番ショットなのだ)
それに続く、黒沢映画史上ここまで派手なアヴァンタイトルも無いだろうというシーンを観ていると、タイトル後は松田龍平と長澤まさみのシーンに変わる。ここからしばらくは、黒沢監督らしさ全開の「じわじわと変化していく日常」がメインになる。
黒沢映画は、本当によくじわじわと観客の不安を掻き立てる。幽霊が現れたり、恐ろしい惨事が起きようと、いつもカメラはじわじわと映しだしていく。カメラがさも観察しているような……と言ったらいいだろうか。

それにしても、黒沢映画の描く家庭の空虚っぷりと言うか胡散臭さったらない。
「リアリティーがない」という次元ではなくて、もはや「家庭」がその後変化していく・崩壊していく世界の前身のように見えてくる。やはりコレは確信犯なのだろうか。


時同じくして描かれるのは、ジャーナリスト桜井と謎の若者・天野の奇妙な道行きなのだが、こちらの件が個人的にツボにハマってしまい。
黒サングラスにヒゲ面といういかにもな姿で現れる長谷川博己に「よしっ」と心の中でガッツポーズ。SF映画のジャーナリストは、こうでなくちゃ。
(ここで言う「こうでなくちゃ」とはSF映画独特の胡散臭さ、それに伴う「その人らしい風貌」に対しての「こうでなくちゃ」であり、『ブルー・クリスマス』(1978)の天本英世と岸田森の謎コンビ、『華氏451』(1966)の消防団などが当てはまる……かな)

余談だが、台本を読んだ長谷川博己は黒沢監督に対して「これは『ゼイリブ』(1988)ですね」と言ったらしい。黒沢監督はそこで勝利を確信したそうだが、さすがシネフィル俳優。
加えて劇中のサングラスも、『ゼイリブ』に対するオマージュから来ているのだとか。
んもう、長谷川さんたら…… 好きになってしまうでしょーがっ!


閑話休題。
(ここから多少ネタバレ在り。)
実は宇宙人であった天野とあきら(そして真ちゃんも)は、自分たちが侵略のために地球にやって来ており、その前に人間が如何なる生物なのかを知るために「概念」を奪っているのだと桜井に語る。
普通だったら逃げるか殺すかするのだろうが、彼はジャーナリスト。本当に宇宙人なのか疑いつつも、天野らに「独占取材」を申し入れる。その代り、天野は桜井に自分のガイドになれと言う。ここに、地球人と宇宙人の奇妙極まりない契約が交わされる。
旅をしながら、桜井は何と天野と共闘するまでになる。


一方では宇宙人となってしまった夫と地球人の妻の愛の物語、もう一方では地球人と宇宙人のバディもの(相棒もの)の物語。
この「異種間バディもの」というヤツを洋画ではよく観る(『ヒドゥン』(1987)とか『ゾンビコップ』(1988)とか)が、何気に日本映画ではなかなかお目にかかれない。それを観られた喜びが、個人的には大きい。

一度組んでしまったのだから、とことん付き合うだけ。これぞバディものの精神。立場や理屈じゃない。そこを突っ込んでしまうのは愚の骨頂。とかく人物の心理状況を台詞で言わせてしまう日本映画において、この潔さは観ていて本当に気持ちが良い。
終盤の2人のシーンは、正直言って主人公夫婦より泣けるぞ!


そしてもう1つ。黒沢監督の映画は、基本的にエコだ。
派手に建物が崩壊したり数台の車がクラッシュするなんて光景は、黒沢映画においてはほぼ無縁。廃墟や木が怪物のような存在感を放っていたり、淡々と銃撃戦が行われたり、画面を見せずに音のみで処理されたりする、なんて事が多い。想像して怖がらせたり驚かせたりするのが、黒沢監督は得意な人だ(その辺りが、先ほど書いた「じわじわ」にも繋がってくるのだと思う)。
しかし時々、どうだ!と言わんばかりの画面を見せつけてくる。近作の『リアル』(2013)然り、私的最高傑作である『回路』(2000)然り。

今作も、街頭の自衛隊登場シーンや病院のパニックシーン、気配を感じさせる家のシーンなど、「数の多さで決まるのではない」とハリウッド映画に言ってやりたいくらい必要最小限のモノ(人や小道具など)で魅せてくれるのだが、終盤に突如現れる飛行機に面食らってしまった。
先の自衛隊登場シーンでは、ヘリコプターの音こそするものの画面には登場しないので、「黒沢監督は、本当に音でスペクタクルしちゃう人だなぁ」なんて思っていたらコレである。
その抜け抜けと飛んでくる飛行機に、僕はまたしてもガッツポーズを取り、もう少しで泣きそうになった(何と大袈裟な、なんて言わないでくださいね。これは実話です)。
この『散歩する侵略者』は、あの20世紀末から21世紀に向けられ作られた黙示録映画『回路』と同じように、どこからともなく飛行機が飛んでくる。世界がどこに向かうか分からない時、黒沢映画では飛行機が飛んでくるのだ!!
そしてその飛行機を見届ける人物は……ここでは言えない!



何だか長谷川さんの件と飛行機についての感想しか言えていない気もするが、ともかく『散歩する侵略者』は必見だ。日本でも数少ない純然たるSF映画であり、バディムービーであり、愛の映画だ。1つの映画で3度美味しい。ごちそうさまでした!


イラスト:城間典子