2018年5月31日木曜日

第10回 『ライオンは今夜死ぬ』は、決してライオンが死ぬ映画ではなかった……

以前の投稿は2か月前だったのですね……
「月一くらいの頻度」という紹介を止めてしまうか、挿絵担当をメチャけしかけるか……本当にすみませんです。
今回は、そんな2か月前に観た作品を紹介しようと思います。


久しぶりに、劇場で鑑賞した映画について書こうと思う。
日本だけでなく、最近はフランスでの映画作りもしている諏訪敦彦監督と、
フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)で映画史に刻まれ、
今やフランス映画界の生き字引となった俳優、ジャン=ピエール・レオ―。


 
この二人が初めてコンビを組んだ作品が、今回ご紹介する『ライオンは今夜死ぬ』(2017)だ。
レオ―久々の主演映画である事、以前観ていた諏訪監督の『ユキとニナ』(2009)が良い映画だった事もあって
気になっていた映画だったのだが、その二人の名前くらいしか前情報を知らず、どんな話なのか知らないままの鑑賞となった。
なんせ「レオ―の役=ライオンが死ぬって話なんでしょ」などと思っていたくらいなのだ!




舞台は南仏、コート・ダジュール。
老俳優ジャン(ジャン=ピエール・レオ―)は、「死」を演じることの難しさで悩んでいた。
映画撮影が中断されることとなり、彼はかつて愛した女性ジュリエットの住んでいた古い屋敷を訪れる。
そこでは何と、ジュリエットは昔のままの姿、幻となって彼の前に現れた。
再会を喜び、その屋敷で寝泊まりをはじめるジャン。

ある日、その屋敷で映画を撮ろうとした地元の子供たちがジャンの存在を知る。
最初はジャンを変な老人扱いしていたものの、次第に彼に興味を持ち、「僕たちの映画に出てくれませんか?」と映画撮影に誘うまでに。
ジュリエットの幻という過去と向き合いつつ、ジャンは子供たちとの撮影で忘れかけていた感情を思い出していく……



 
老いた自分と変わることのない女性との日々、かりそめの幸せの中で物語は展開していくのかと思いきや、
10歳前後の子供たちの登場、あれよあれよという間に仲良くなり映画撮影。
先ほども書いたように、どんな映画か全く知らずに鑑賞したため「え、幽霊!?」となったかと思えば「え、映画内映画!?」と二転三転の驚き(大袈裟)をしてしまった。



ジュリエットとの事だけを描いていたら、映画は多分もう少し寂しいと言うか、重いものになったかもしれない。
しかし、そこに子供たちを入れたのが諏訪監督の「らしいところ」と言うべきか。
序盤で登場する映画撮影クルーたちの真面目な態度(そりゃプロだかんね!)と違い、ジャンの事を知らない彼らは「本当に俳優?」なんて尋ねるし、撮りたいもののアイディアを喋りまくる。
彼らに満ち満ちているのは、溢れる想像力と行動力だ。



他の映画だと、老人と子供のジェネレーション・ギャップとか、
仲良くなるにしても異なる世代故の境界線のようなものが多少描かれると思うが、この映画のジャンと子供たちの関係は、本当の意味での同志、共犯関係になる。

子供たちの溢れんばかりのエネルギーに、ジャンも負けじと向き合う。
そうして出来た映画は「みんなの撮りたかったものが詰まっている映画」であり、ジャン曰く「単純だけど、それ故に美しい」作品となる。



 子供たちのシーンは多分に即興演出もあるのだろう、正に見事としか言いようのない活き活きした動きを見せている。
即興という言葉に甘えて自由気ままに蹂躙させるのでなく、ちゃんと演技するところはさせている。
『ユキとニナ』でも感じていた事だが、諏訪監督は子供の演出が相当巧い。
この演出の見事さは、トリュフォーやカサヴェテスに匹敵すると言っても、決して言い過ぎではないはずだ。



映画の序盤で、ジャンは「死とは出会いだと思う」と言っている。
ジュリエットの幻や、子供たちと出会った事によって、ジャンは過去と対峙し、現実を生きる歓びを見出す。
死というヤツも、ふとした時に出会うものなのかもしれない。そんな気持ちをジャンは感じたのではなかろうか。
そんなジャンの顔に、悲壮感はない。
彼の顔には、愛する人とまた会えた喜び、子供たちとの撮影で得た楽しさ、死を自分なりに掴むことが出来た男の覚悟が刻まれている。
そんな彼の姿を観ていると、生きる事、死ぬ事に対して少し前向きになれる気がする。
観た人の心の中にいつでも寄り添っているような、そんな素敵な映画だった。


イラスト:城間典子