2019年4月30日火曜日

第19回 平成最後の映画紹介は、絶対『ぐるりのこと。』にしようと決めていた。

{はじめに}
この文章は、2015年12月30日発行(こんな年末に最初の号を発行していたんですねぇ……)の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第1回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。



こんばんは!
新年度を迎えただけでなく、いよいよ平成があと数時間で終わるという今日!
いかがお過ごしでしょうか?
僕は相変わらず映画の鑑賞本数が少なく(でも、映画館には向かうようにしている…… しているんですよ!)、かと言って読書がメチャはかどっているワケでもない、タンジェリン・ドリームの音楽を改めて聞いて惚れ惚れしたり、ガンダムのポケ戦を観たので次は08小隊を観ようとしている日々です。
戦隊ものなら、五星戦隊ダイレンジャーが気になって見始めたら予想以上のジェットコースター展開に面食らっております。
……誰も聞いとらんっての。


ここ最近観た映画で面白かったのは、DVDで観たキャスリン・ビグロー監督の(単独での)監督デビュー作『ニア・ダーク/月夜の出来事』(1987)でした。
実は以前にも観ている作品で、ふとした時に観返したくなる映画なんです。
自分的に「オイシイ」と思っているポイントをことごとく押さえていて、たまらんのです。
(いつか紹介したい)

 

さて、今回紹介する映画は、橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』(2008)です。
この映画、僕が邦画で一番好きな映画だったりします。
一番好きな邦画なので、以前taomoiya雑文集で映画レビュー連載をした時も、一番最初に取り上げました。
それくらい僕にとって本作は大事な映画なのですが、その魅力がちっとでも伝われば良いなぁと思いながら、その記事を再録したいと思います。
映画の内容も、90年代が終わって2000年代に突入していく話なので、平成から令和への移り変わりという節目に良いかな、と思いまして。
(再録記事のため、文章の書き方が「です・ます調」ではなく「である調」です。悪しからず)

 


この映画は、翔子(演:木村多江)とカナオ(演:リリー・フランキー)という一組の「何があっても絶対に別れない夫婦」の生活を、1993年から2001年までの約10年という時間をかけて描いている。
この約10年の間には、20世紀が終わろうとしているにもかかわらず(いや、だからなのかもしれない)、オウム真理教による地下鉄サリン事件や宮崎勤の幼女連続誘拐殺人事件、9・11テロなど陰惨な事件が相次いだ。
この映画の中でも、それらの事件が数々の裁判シーンによって(ある種のデフォルメを施されて)描かれる。
カナオは法廷画家であり、事件の当事者たちを目の当たりにしていく。
 

ここで興味深いのは、カナオが単なる観察者であるところだ。
彼は犯罪者たちを見て怒りに駆られるでもなく、淡々と法廷画の対象として彼らを描く。
この淡々と、という表現はカナオの翔子に対する態度でもあるし、映画のテンポでもあるし、何より橋口監督の目線である。
夫婦の周りで起こることをやたらドラマチックに見せたり、「平和なのにどこかネジが外れてきたような日本と日本人」に対し「これでいいのか!?」と声高に言う映画ではない。
そんなどこかおかしい日本で、それでも「淡々と」生きていく2人の物語なのだ。
俯瞰しているかのような目線だが、橋口監督が主役2人に向ける眼差しは限りなく優しい。

 

翔子は何事もきちんとしたい性格の、出版社に勤める女性。
母親や兄夫婦からは「あんな奴(飄々とした性格が災いしてか、翔子の家族らからはよく思われていないカナオである)とは別れた方が」と言われるものの、カナオとの生活が幸せだ。

2人は子供を授かっていた。
だが、生まれたばかりの子供は亡くなって(泣き崩れる2人や病院でのシーンがあるワケではなく、位牌と飴玉だけでそれを表現している。これぞ映画表現)しまう。
この頃から、彼女は心を病んでいく。

カナオに秘密で2人目の子供の中絶手術を受け、より深い罪悪感に追い詰められる。
そんな彼女がある台風の夜、ついにカナオに対し心のわだかまり、不安、恐れをぶつけ、取り乱す。
だがカナオは慌てず騒がず、彼女が殴りつけても咎めない。カナオは取り乱している彼女を受け入れる。


「どうして私と一緒にいるの?」と、翔子が泣きながら訊く。
「好きだから…… 好きだから一緒にいたいと思ってるよ」と、カナオは静かに言う。

この言葉に嘘はない。
不器用な2人だからこそ、この一連のシーンに胸を打たれる。
僕は、何度もこのシーンで救われた気がする。
(鼻水とちょっとエッチな話がこれに続いて、いかにもリリー・フランキーらしい自然さ&橋口監督らしい観察描写で素晴らしい)


ここがちょうど映画の半分ほどで、かつ一番の盛り上がりどころと言っていいだろう。
嵐の夜を乗り越えて、翔子はまた1人の人間として生き生きと動き出す。
天井画を描き始める翔子と、法廷画家の仕事を続けるカナオ。また2人に、幸せなリズムが息を吹き返していく。

この後も素晴らしいシーンと演技の連続なのだが、此処では割愛。
僕が書きたいのは「何があっても絶対に別れない夫婦」の事だ。
個人的な話で恐縮だが、この映画を観たとき「理想の夫婦だなぁ、こういう人になりたい」と思ったものだ。
不器用で世渡りが決して上手とは言えない2人。
しかし互いを信頼し、絆を深め合い暮らしていくことで、彼らが真に芯の強い人間なのだと分かる。
それは人間的な強さで在り、人が生きていくうえで必要なものだと僕は思う。

まず、相手を受け入れてみる。相手を観察する。
そこから、相手のみならず自分自身も見えてくるのではないだろうか。



リリー・フランキーは、この前にも映画に数本出演している
(演技&映画デビュー作は何と、キング・オブ・カルトな映画を連発した石井輝男の遺作『盲獣vs一寸法師』だ!)のだが、この『ぐるりのこと。』が本格的な映画出演作と言っていい(はず)。
今や人気俳優として活躍している彼だが、本作での演技は正直言って拙い(つまり本作以前の彼の演技は…… 推して知るべし)。
だが、その拙さはカナオの不器用さにきちんと繋がっているため違和感はない。
 


 橋口監督は『ぐるりのこと。』を「主役2人のドキュメンタリーを撮るつもりで臨んだ」と発言している。まさにその通り。
この映画は、基本的に長回しで人物の動きや会話をフレームに収めるのだが、その緊張感たるや。
最近の映画では日常の倦怠感や時間のダラダラしている様を映すために長回しを使っているが、
橋口監督の場合だと事態はそれほど甘くない。
彼が執拗なほど長回しを使うのは、人物たちがどのように他者と近づいてコミュニケーションをとるのか、どのように人は他者と距離を置いたりするのかという「観察者」である彼の性質、姿勢から来ているものだ。
時に冷たいその目線は我々観客を不安にさせるが、安心しよう。
彼はどんな絶望的な状況下に置かれている人物たちにも一抹の光を与えてくれる。


 

余談。
この映画でリリー・フランキーは演者として目覚め、役者として大成するきっかけを得たのだが、
それは翔子を演じた木村多江にとっても同じで、この映画で彼女は初めて主演した。それまでは脇役止まりだったのだ。
この役を演じた後も、ちょこちょこ主演しているものの、やはり脇役が多い。
妙に演者づいてきたリリー・フランキーばかりが主役・準主役級に出演し、木村多江のような女優を放っておく日本の映画界とは一体どれほど愚鈍であるのだろうか!

最後に、僕は「三大・夫婦もの映画」という、夫婦もの映画の中で特筆ものの3本を自己満足で選んでいる。1つは今回紹介した『ぐるりのこと。』で、あとの2つはジョン・カサヴェテス監督の『こわれゆく女』(1974)豊田四郎監督の『夫婦善哉』(1955)なのだが、いずれ紹介出来たらなぁと思う。



といった内容でした!
この後『こわれゆく女』は、雑文集で無事(?)紹介する事が出来ました。
しかし最後の『夫婦善哉』は紹介出来ておらずで、両作ともいつか紹介したいです。
では、令和を迎えても、細々と続けてゆく当blogを何卒よろしくお願いします。



イラスト:城間典子
(僕の映画レビューに初めて彼女の絵が載った、記念すべき一枚です。ここから始まったのかと思うと、感慨深いです。)