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2024年4月1日月曜日

第32回 『PERFECT DAYS』を観てからの、僕のDAYS

こんにちは!
突然ですが……わたくし岩佐悠毅は、本ブログの挿絵を担当している城間典子さんと昨年結婚し、今年の2月に大学時代から住んでいた京都を離れて、故郷の大分県へ戻ってきました!
引っ越しのアレコレ、身の回りの環境への適応、新しい仕事が少~し落ち着いてきて、やっとブログに手をつける事が出来ました……。

地元の佐伯市ではなく、大分駅やトキハ(大分県が誇る百貨店)本店がメチャ近い大分市内ど真ん中が、僕たちの今の住まいです。少し(30秒)歩けば食べ物屋はあるし、商店街も近い、面白い本屋も映画のポスター屋もある、といった恵まれた立地。
忘れちゃいけない映画館も、地元にいた頃からお世話になっているミニシアター・シネマ5が徒歩3分。
ありがたや~。シネマ5で観た映画たちも、ドンドン紹介していきたいですね。

今回ご紹介する映画は、離れる前の京都で1回、大分へ越してきてから1回と(今のところ)合計2回鑑賞し、アカデミー賞も受賞してホットな話題を振りまく『PERFECT DAYS』(以下、パーデイ)です。

『PERFECT DAYS』(2023年 / 主演:役所広司 / 監督:ヴィム・ヴェンダース)
渋谷の公共トイレ清掃員・平山(演:役所広司)の淡々とした日常を丁寧に追う本作。

大好きなヴェンダース監督が、『東京画』(1885)『夢の涯てまでも』(1991)以来、本格的に東京の街を撮ると聞いて、ワクワクが止まらず、期待大にして映画館に向かいました。が……何だろう、この違和感。この映画が評価されるのは分かるし、事実「良い映画だな」とは思うのですけれど、何だかな~な部分も感じたのでした。
とりあえず本作で感じた事を書き連ね、それでもこの映画から受けた影響、考えを書きたいと思います。

平山の日常は「流れ」として完成されており、ルーティーンが映し出されていく中で「平山が大切にしている事」「周りの環境」が見えてきます。それが……。

思わず「悟ってんのか」と言いたくなるくらい自分の世界・生活に準拠している平山はともかく、周りの人物たちのキャラクターがいかにも作り物くさく、作り手側が言っている「平山のドキュメンタリーのつもりで云々」が白々しく聞こえてしまうのです。
特に平山の同僚であるタカシ(演:柄本時生)の軽薄な若者像は、観ているこっちが「(演じてる)時生かわいそうだな…」といたたまれなくなる始末。
本作に限らず、口癖のある人物を描く時って凄くキャラクター感が出てしまう場合が多いと思います(『シン・仮面ライダー』とか)。

人物に留まらず、平山の路駐自転車描写とか田中泯扮するホームレスの描写など、現実の東京なら「即アウト、撤去もんだろ!」とツッコみたくてしょうがない!
野暮な見方だと思うものの、こういう細かい部分が嘘くさいと、映画全体が嘘っぽく見えて勿体ないなぁと。


劇中で平山は、姪っ子のニコ(演:中野有紗)に対して「この世界は、本当はたくさんの世界がある。繋がっているように見えても、繋がっていない世界がある」と語ります。
これは平山の背景にも重要な意味を持ってくる台詞なのですが、この台詞がある事によって、逆に平山の世界が凄く閉じられたもののように感じられたのです。

平山の徹底した生活は、外部からの「世界の持ち込み」を歓迎しません。行きつけの銭湯や居酒屋のテレビから流れるのは野球や相撲ばかりで、日本や世界の現状は伺えない。
本こそ読むけれど、映画なども観に行かない。これまでの作品で映画愛を謳ってきたヴェンダースが「映画」を持ち込まなかったのは、「もう一つの世界との出会い」を徹底して除こうとしたのだと感じました。
(同じ時期に観たアキ・カウリスマキの『枯れ葉』(2023)とは、その意味で凄く対照的です)

この映画の中での「世界」との繋がりは人と人との間にしかなく、だからこそ日々をキッチリと過ごす平山が、思わぬ人物と出会ったりコミュニケーションを取る際にうろたえたりするのかな、とも感じました。
もっとも、そのうろたえた時に平山の“人間らしさ”が見えてきて好印象なのですが。


と、色々と文句じみた感想を書きましたが、だからといって嫌いになれないのが本作、というかヴェンダースの映画。素直に「良いなぁ」と思える点もやっぱりありました。

先ずは映像。
ヴェンダースの映画に映る都市は、いつだって異世界。見慣れた光景が映し方ひとつ変えるだけで初めて見るような感覚に陥ります。
早朝の淡い光に包まれた東京の画、車を走らせながら通り過ぎる光景、カメラを向け、日々変化する木漏れ日を撮る瞬間。
写真家の森山大道に深く共鳴するのと同じように、僕はヴェンダースの映像に、その狩人のように風景を切り取っていく視点に共鳴します。

平山がニコと自転車を走らせるシーンは、役者が映っているシーンの中で最上の場面ではないでしょうか。ここにはヴェンダースお得意の即興感溢れるキャメラと、眩しいほどの役者と風景の融合が見られます。

劇中は自転車2台が光の中を並走します。それはそれは美しいシーンなのです。

そして音楽。
極論させてもらうと、平山の日々を音楽のみで語らせる事も出来たのではないかと感じるのです。
それほどに本作に流れる音楽は平山を、映画の時間を代弁しており、台詞以上に雄弁です。
(ルー・リードの『PERFECT DAY』の使われ方は、いかにも俗っぽくて初見時は「ありえない」なんて思いましたが、2回目に観るとその俗っぽさが平山の人間臭さに繋がっているようで微笑ましく観れました)

映画の時間に寄り添った選曲。これは良い意味でも悪い意味でもPV的な使い方です。
実際、今までのヴェンダース映画以上に使われ方が俗っぽいんですよ。キンクスとか、ニーナ・シモンとか。
しかし、こういう使い方って僕たちが日常生活にやってしまいそうな選曲だなって思ったときに、逆に「今まで以上に作る側と観る側の距離感を近くに感じさせる曲選びだな」と感じたのです。そう思うと、「こういう使い方もアリなんだ!なるほど~」と感心しました。


ヴェンダースは本来「脚本の映画」よりも「撮影の映画」を撮ってきた人であり、本作は(個人的に)「脚本の映画」部分が少し強かったような気がします。
人物の会話になると、どうしても脚本以上のものが見えてこず、それが世界観の狭さに見えてくるのかもしれません。
ただ、自転車、車、そして影踏みと、何かが“動く”シーンになると途端に良く見える。それは脚本の束縛を乗り越える“運動”故に生じた映画の感動なのでしょう。
不満点も多いけれど何だか憎めない。僕がパーデイに思うのはそんな感情でした。


ただ、都会での新生活を始めた身からすると、日々を慣らしていく意味も込めて、平山のように日常を「流れ」で過ごせるようにしていこうと、少なからず影響を受けているようなのです。
「洗濯物を回し、干す」というのを出勤前にすることで生まれる早起き。開拓中だからこそ生まれる新しいお店との出会い、常連化。スマホをなるだけ見ず、読書に割り当てる時間。思い切りオフを楽しむために足を運ぶ本屋や映画館……。
本作を観て以降、京都生活でも心がけていた「生活のリズム、オン・オフ感」を、より意識したように思います。

物欲にまみれた自分には平山のようなミニマリストにはなれそうもありませんが、日々のリズムを意識的に作ってみたり、自分の中で大切にしたいものをハッキリと表明させていくことは出来そうです。

パーデイのチラシを自分流に描きました。難しいポーズ!

イラスト:岩佐悠毅
新生活の気分を、僕の分身ことマスター君に乗せてみました。
自転車って、描くの難しいですね。

2023年6月1日木曜日

第22回 3年ぶりの『はちどり』は如何に映ったか?

こんばんは! 
皆さん、お元気でしょうか。
僕は元気です。なんと3年ぶりの更新となってしまいました。
このblogを楽しみにしてくれている(有難くも奇特な)皆さん、どうもお待たせしました!

3年以上もblog投稿が空くと「どんな具合で書けばいいんだ」とか「何を復活第一弾にすればいいんだ」などと、独りで意味もなくテンパってしまうものです。

そこで今回は、3年前の2020年当時、ベスト級に良かった映画を紹介する事にしました。
その作品は、キム・ボラ監督による韓国映画『はちどり』(2018)です。

『はちどり』(2018年 監督:キム・ボラ)


2020年に話題を呼んだ韓国映画と言えば、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019)が真っ先に思い浮かびますが、本作も結構話題の映画でした。
本作が長編デビュー作であるキム・ボラ監督の確かな演出力は世界各国で絶賛され、単に映画祭で評価されただけでなく、韓国内でも単館公開規模ながら公開一ヶ月で観客動員数12万人超という驚異の大ヒット。国内外で評価された映画だったのです。

もう数年前のことなので、何をキッカケとして観に行ったのか朧げなのですが、観終わった時に「この映画は、自分にとって大事な映画になるな」と思ったものです。
先日も観なおす機会があったため、久しぶりに本作と向き会いました。
今回は「どうして、自分にとって大事な映画だと思ったんやろう」と思いながら観ていました。
良い意味での疑問を抱きながら観、終わった頃には「うん、やっぱり大事だ」と改めて思わされました。
今回は、その「良いと思った何か」を自分なりに考えながら、紹介していきます。


1994年、韓国のソウル。14歳のキム・ウニは両親、兄、姉の5人で暮らしている。
両親からは世間体の良さばかりを求められ、学校にはなじめず、同じ塾に通う親友との時間や彼氏の存在が彼女にとって救いであり癒しでもある。
家庭や学校である種の息苦しさを感じていた彼女の前に、新しい塾の教師が現れて……。


男性優位的な社会観、そして「良い大学に入る」ことこそが最高のゴールだと言わんばかりの両親や学校。ウニでなくとも「嫌~な青春」というカテゴリーに入ってしまいそうな日々。
この作品の舞台となっている90年代は、正にキム・ボラ監督が13~14歳の少女として、青春を謳歌している時代でした。すなわち、ウニの姿は当時の監督の姿でもあるワケです。
「当時は当たり前すぎて疑問に思わなかった、考えていなかったけど、後から考えるとオカシナ事だったなぁ」と思ったりする機会が皆さんにもあるかもしれません。
ボラ監督も、そのように当時を振り返りながら撮影をしたのでしょう。

インタビューの中でも「人が生きるうえで感じるすべての感情を、少女の生活を通じて見せたかったし、政治、社会、フェミニズム、ジェンダーといった様々な社会的な問題を、少女の目を通じて、微細なところから見わたそうと努力しました」と言い切っています。
これはその当時を生きた監督が、今現在だから語れる、描けることであります。
いわば本作は、現在に生きる監督が、かつて自分が生きた90年代の韓国を批評するかのような作品でもあるのです。

映画にせよ本にせよ、どうも僕はこのような「個人を通して歴史を、限られた時代を描く作品」に弱いらしく、オールタイム級に大好きな『ぐるりのこと。』(2008)と本作の性格はよく似ていると、初見の際に感じたものです。
やはり大衆で物事を語られるより、個人の生き様で語ってくれる方が、観ている側にとって伝わりやすいからでしょうか。なんと身も蓋も無い分析なんでしょうか。

『はちどり』では、ウニの目線で全てが語られていきます。
自分に対し、やたら両親が冷たい態度をとっていると思いきや、その直後には何事も無かったかの如く一緒に食事をとっている不思議。
親の言う通りに勉強ばかりして、その鬱憤を自分に向けてくる兄の理不尽さ。
彼氏のところへ行ったり家へ連れ込んだりする姉の大胆さに、驚きと少しの憧れを抱かずにはいられなかったり。
皆それぞれの方向ばかり見ていて、まるで自分のことなんて見てくれやしない。
そんなやけっぱちな気分にもなってしまいそうですが、どっこいそこは家族と言うべきか、そこまで冷たい感じでもありません。

ウニの耳後ろ辺りにしこりが出来て、それを手術する際に「顔面麻痺が起こりうる」と医者に言われた時。ウニ以上に動揺し、声をあげて泣く父親の姿は、それまで映っていた家父長制社会の権化のようだった人物と別人のようです。しかし、娘を心配しなくこの姿も一つの顔なのです。
叱ったりすることも多いものの、ウニに「ダメな娘」という烙印を押し付けて放っておくでもなく、彼女のお腹が空いてそうならチジミを作ってあげる母親。
「この父親は〇という性格、母親は△な性格」というカテゴライズをするのではなく、「父親は〇な性格が主だけど、時には×な性格の時だってある」という通り一遍ではない描き方。
もっと言えば「人間の持つ割り切れなさ」を、本作は唐突に、しかし丁寧に描いています。


そしてウニの前に現れる一人の女性。漢文塾の新しい教師であるヨンジの登場は、ウニにとって「大人」の価値観を覆す出会いでした。
不良生徒のように煙草を燻らせる姿、授業前に描いていた漫画に興味をもって話しかけてくれたこと、友だちや彼氏との関係が上手くいかなかった時なども、お茶をふるまい話を聞いてくれた……。
自分の見てきた大人たちとは何かが違う、その何かに憧れや親しみを覚え、ウニはヨンジに心を開いていきます。
人はよく、自分にないものを相手に求め、それに憧れることが多々あります。
ウニも当初はそうだったでしょう。しかしウニは気づいていきます。
ヨンジは自分をひとりの人間として見てくれている。だから私はこの人といると安心するし、落ち着けるのだと。
自分よりも相手を下に見ている態度というものは、すぐ相手に伝わるものです。
「近頃の若いもんは…」「年上だから伝えれる事がある」「お前たちバカを私が鍛えてやる」「お前は俺のところに働かせてもらっているんだ」etc……ウンザリしちゃいますね!

ヨンジ自身が大学休学中である学生、つまりウニと年齢が近かったことも大きいのでしょうが、彼女は当時の世の中の流れとは対極的な存在であるかのように見えます。
労働運動で歌われた『切れた指』を歌う場面、大学を休学中でバイトを転々としている… と語る場面など、ヨンジは学生運動に参加していた人物ではないか(この事はパンフレットに記載されていた監督インタビューの中にも明記されていました)、つまりヨンジは、それまでの「世代」とは違う「新たな世代」の人であるということです。
新しい世代は何かと煙たがられるものです。ロックンロールが流行しだした頃など、良い例ですよね。しかし新世代の台頭は、よくも悪くも社会が変革する時。
ウニがヨンジと出会った時間こそ、それまでの価値観から一歩踏み出そうとしている韓国変革の真っ只中なのです。

両親たちの世代、ヨンジたちの世代、そしてウニたちの世代と、3つの世代が邂逅し、それぞれに変化が生じていく。
『はちどり』は単なる「少女が過ごした青春の一ページを切り取った映画」ではなく、当時の韓国の情勢を見事に取り込み、描ききった映画であるのです。
ただ、こう書くと人物たちの言動、動作といったものが図式化された、いわば「監督のメッセンジャーとしての機能」に陥ってはいやしないか、と考える方もいるかもしれません。
が、それは大丈夫です。それぞれの人物たちは「役の役割」を軽々と超え、見事に劇中の時間を「生きて」いますから!

本作では度々、ウニを背中から捉えたショットが映し出されます。
「見えない」という事が想像力を刺激するように、私たち観客も表情の見えないウニに想いを馳せます。
その場面で彼女の考えているもの、彼女が背負っているもの、そして彼女の視線の先にあるもの……。
この映画には様々な要素が散りばめられているワケですが、僕が本作をとても好きになってしまったのは、この絶妙な「背中ショット」があるから、つまりこのショットで築かれる「間」が、観客に対して、映画や人物についての想像の時間を与えてくれるからではないかなぁと感じます。
映画には時間経過を示す「視覚的な間」と、人物や映画そのものの内面に迫る「感覚的な間」の2つがあります(と、僕は常々思っています)。
『はちどり』は、この『感覚的な間』の描き方が、非常~に上手い気がしたのです。
単に「この背中ショット、決まってるねぇ!」と直感で気に入っただけかもしれませんが……。
ともあれ、この「背中ショット」は下手な人がやると本当に下手くそなので、やっぱり上手いんです。ショットを入れてくるタイミングや、映す長さが。

と、長々と書き連ねてきた『はちどり』覚え書きでしたが、やはり映画の魅力を言葉にするのは難しいです。
頭でっかちな文章だなぁと我ながら思うのですが、もしこれを読んで少しでも映画に興味を持っていただけたら(そして観ていただけたら!)、書いた甲斐もあるというものです。

挿絵:城間典子

2019年4月30日火曜日

第19回 平成最後の映画紹介は、絶対『ぐるりのこと。』にしようと決めていた。

{はじめに}
この文章は、2015年12月30日発行(こんな年末に最初の号を発行していたんですねぇ……)の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第1回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。



こんばんは!
新年度を迎えただけでなく、いよいよ平成があと数時間で終わるという今日!
いかがお過ごしでしょうか?
僕は相変わらず映画の鑑賞本数が少なく(でも、映画館には向かうようにしている…… しているんですよ!)、かと言って読書がメチャはかどっているワケでもない、タンジェリン・ドリームの音楽を改めて聞いて惚れ惚れしたり、ガンダムのポケ戦を観たので次は08小隊を観ようとしている日々です。
戦隊ものなら、五星戦隊ダイレンジャーが気になって見始めたら予想以上のジェットコースター展開に面食らっております。
……誰も聞いとらんっての。


ここ最近観た映画で面白かったのは、DVDで観たキャスリン・ビグロー監督の(単独での)監督デビュー作『ニア・ダーク/月夜の出来事』(1987)でした。
実は以前にも観ている作品で、ふとした時に観返したくなる映画なんです。
自分的に「オイシイ」と思っているポイントをことごとく押さえていて、たまらんのです。
(いつか紹介したい)

 

さて、今回紹介する映画は、橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』(2008)です。
この映画、僕が邦画で一番好きな映画だったりします。
一番好きな邦画なので、以前taomoiya雑文集で映画レビュー連載をした時も、一番最初に取り上げました。
それくらい僕にとって本作は大事な映画なのですが、その魅力がちっとでも伝われば良いなぁと思いながら、その記事を再録したいと思います。
映画の内容も、90年代が終わって2000年代に突入していく話なので、平成から令和への移り変わりという節目に良いかな、と思いまして。
(再録記事のため、文章の書き方が「です・ます調」ではなく「である調」です。悪しからず)

 


この映画は、翔子(演:木村多江)とカナオ(演:リリー・フランキー)という一組の「何があっても絶対に別れない夫婦」の生活を、1993年から2001年までの約10年という時間をかけて描いている。
この約10年の間には、20世紀が終わろうとしているにもかかわらず(いや、だからなのかもしれない)、オウム真理教による地下鉄サリン事件や宮崎勤の幼女連続誘拐殺人事件、9・11テロなど陰惨な事件が相次いだ。
この映画の中でも、それらの事件が数々の裁判シーンによって(ある種のデフォルメを施されて)描かれる。
カナオは法廷画家であり、事件の当事者たちを目の当たりにしていく。
 

ここで興味深いのは、カナオが単なる観察者であるところだ。
彼は犯罪者たちを見て怒りに駆られるでもなく、淡々と法廷画の対象として彼らを描く。
この淡々と、という表現はカナオの翔子に対する態度でもあるし、映画のテンポでもあるし、何より橋口監督の目線である。
夫婦の周りで起こることをやたらドラマチックに見せたり、「平和なのにどこかネジが外れてきたような日本と日本人」に対し「これでいいのか!?」と声高に言う映画ではない。
そんなどこかおかしい日本で、それでも「淡々と」生きていく2人の物語なのだ。
俯瞰しているかのような目線だが、橋口監督が主役2人に向ける眼差しは限りなく優しい。

 

翔子は何事もきちんとしたい性格の、出版社に勤める女性。
母親や兄夫婦からは「あんな奴(飄々とした性格が災いしてか、翔子の家族らからはよく思われていないカナオである)とは別れた方が」と言われるものの、カナオとの生活が幸せだ。

2人は子供を授かっていた。
だが、生まれたばかりの子供は亡くなって(泣き崩れる2人や病院でのシーンがあるワケではなく、位牌と飴玉だけでそれを表現している。これぞ映画表現)しまう。
この頃から、彼女は心を病んでいく。

カナオに秘密で2人目の子供の中絶手術を受け、より深い罪悪感に追い詰められる。
そんな彼女がある台風の夜、ついにカナオに対し心のわだかまり、不安、恐れをぶつけ、取り乱す。
だがカナオは慌てず騒がず、彼女が殴りつけても咎めない。カナオは取り乱している彼女を受け入れる。


「どうして私と一緒にいるの?」と、翔子が泣きながら訊く。
「好きだから…… 好きだから一緒にいたいと思ってるよ」と、カナオは静かに言う。

この言葉に嘘はない。
不器用な2人だからこそ、この一連のシーンに胸を打たれる。
僕は、何度もこのシーンで救われた気がする。
(鼻水とちょっとエッチな話がこれに続いて、いかにもリリー・フランキーらしい自然さ&橋口監督らしい観察描写で素晴らしい)


ここがちょうど映画の半分ほどで、かつ一番の盛り上がりどころと言っていいだろう。
嵐の夜を乗り越えて、翔子はまた1人の人間として生き生きと動き出す。
天井画を描き始める翔子と、法廷画家の仕事を続けるカナオ。また2人に、幸せなリズムが息を吹き返していく。

この後も素晴らしいシーンと演技の連続なのだが、此処では割愛。
僕が書きたいのは「何があっても絶対に別れない夫婦」の事だ。
個人的な話で恐縮だが、この映画を観たとき「理想の夫婦だなぁ、こういう人になりたい」と思ったものだ。
不器用で世渡りが決して上手とは言えない2人。
しかし互いを信頼し、絆を深め合い暮らしていくことで、彼らが真に芯の強い人間なのだと分かる。
それは人間的な強さで在り、人が生きていくうえで必要なものだと僕は思う。

まず、相手を受け入れてみる。相手を観察する。
そこから、相手のみならず自分自身も見えてくるのではないだろうか。



リリー・フランキーは、この前にも映画に数本出演している
(演技&映画デビュー作は何と、キング・オブ・カルトな映画を連発した石井輝男の遺作『盲獣vs一寸法師』だ!)のだが、この『ぐるりのこと。』が本格的な映画出演作と言っていい(はず)。
今や人気俳優として活躍している彼だが、本作での演技は正直言って拙い(つまり本作以前の彼の演技は…… 推して知るべし)。
だが、その拙さはカナオの不器用さにきちんと繋がっているため違和感はない。
 


 橋口監督は『ぐるりのこと。』を「主役2人のドキュメンタリーを撮るつもりで臨んだ」と発言している。まさにその通り。
この映画は、基本的に長回しで人物の動きや会話をフレームに収めるのだが、その緊張感たるや。
最近の映画では日常の倦怠感や時間のダラダラしている様を映すために長回しを使っているが、
橋口監督の場合だと事態はそれほど甘くない。
彼が執拗なほど長回しを使うのは、人物たちがどのように他者と近づいてコミュニケーションをとるのか、どのように人は他者と距離を置いたりするのかという「観察者」である彼の性質、姿勢から来ているものだ。
時に冷たいその目線は我々観客を不安にさせるが、安心しよう。
彼はどんな絶望的な状況下に置かれている人物たちにも一抹の光を与えてくれる。


 

余談。
この映画でリリー・フランキーは演者として目覚め、役者として大成するきっかけを得たのだが、
それは翔子を演じた木村多江にとっても同じで、この映画で彼女は初めて主演した。それまでは脇役止まりだったのだ。
この役を演じた後も、ちょこちょこ主演しているものの、やはり脇役が多い。
妙に演者づいてきたリリー・フランキーばかりが主役・準主役級に出演し、木村多江のような女優を放っておく日本の映画界とは一体どれほど愚鈍であるのだろうか!

最後に、僕は「三大・夫婦もの映画」という、夫婦もの映画の中で特筆ものの3本を自己満足で選んでいる。1つは今回紹介した『ぐるりのこと。』で、あとの2つはジョン・カサヴェテス監督の『こわれゆく女』(1974)豊田四郎監督の『夫婦善哉』(1955)なのだが、いずれ紹介出来たらなぁと思う。



といった内容でした!
この後『こわれゆく女』は、雑文集で無事(?)紹介する事が出来ました。
しかし最後の『夫婦善哉』は紹介出来ておらずで、両作ともいつか紹介したいです。
では、令和を迎えても、細々と続けてゆく当blogを何卒よろしくお願いします。



イラスト:城間典子
(僕の映画レビューに初めて彼女の絵が載った、記念すべき一枚です。ここから始まったのかと思うと、感慨深いです。)

2018年3月31日土曜日

第9回 まっすぐな瞳を見つけて……『ぼくと駄菓子のいえ』を観る。

{はじめに}
この文章は、2017年1月15日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第13回の文章を再録したものです。


桜の花が満開になり、明日からはもう4月です。
新しい季節、生活の始まりという感じが、町のあちこちからします。
実は僕も、27日に引っ越しをしたばかり。
とは言っても、前の住んでいた所から10~15分ほど離れただけなのですが。
しかし、えらくのどかな場所でして、日当たりは良くて目の前は畑が広がって…… と、自分語りはこれくらいにして。
今回ご紹介する映画は、そんな新しい季節を迎える僕たちに、気持ちのいい風を感じさせるようなドキュメンタリー映画です。 
 
 
規模の大小こそあれど、駄菓子屋という場所は昔から、子供たちのコミュニケーションの場、情報交換の場、交流の場である。
僕もかつては駄菓子屋で、ただ駄菓子を買うのではなく、たむろして取り留めのないお喋りに花を咲かせたり、駄菓子屋前でカードゲームをしたりしたものだ。
時には仲のいい先輩を捕まえ、駄菓子を奢ってもらうという事もあった。
小学校から物凄く近い所にあったため(ほとんどご近所さんみたいなもんだった)、みんな駄菓子屋に寄るし、遊ぶ時の集合場所にもなった。
今思い返すだけでも、子供にとって駄菓子屋という場所は、切っても切れない縁のある場所であったように思う。

そして、果たす役割も物凄く大きい。
駄菓子屋とは、子供たちにとっての、まず最初に出会う「社交場」なのだろう。
 

今回紹介する映画は正に、駄菓子屋が社交場となっていて、そこに集う子供たちと店のおばちゃんたちとの交流の記録である。
(ところで、駄菓子屋やラーメン屋とかに行くと、その店にいる女の人の事を「おばちゃん」と呼んでしまいたくなる事ってありませんか? いかに年が若かろうと……)




大阪府富田林市にある駄菓子屋「風和里(ふわり)」。
松本明美さんとその娘よしえさんの親子二人で営んでいるこのお店には、学校帰りの子供たちの声で溢れている。
しかしその中には、家庭や学校の問題により居場所をなくした子供たちもいる。
そんな彼らに対し明美さんとよしえさんは、時にはお母さんのように優しく、時には厳しく接していく……



僕がこの映画に好感を持ったのは、監督の視線だ。愚直なまでの、まっすぐな視線。
奇を衒ったりナレーションなどで簡単に済ませるのではなく、撮影する対象とがっぷりと四つに組む姿勢。
カメラもまた、風和里を訪れるお客のような距離感で、お店の中、あるいは外で、彼らの話を聞き始める。そんな映画の作り方。
簡単なようで、実はとても時間と根気のいる姿勢だ。
そのおかげで、キャラ立ちしている人物たちに負けない、シンプルながら力強い映像になっていると思う。
松本さん親子をはじめ、風和里に集まる「問題を抱えた」子供たちもまた、魅力的な人物たち。
特に印象に残ったのは、小5にして親分みたいな貫禄のある、こうせい君だろうか。
彼も両親の問題が元で、心中穏やかではない。
だが彼は明美ちゃん(風和里の子供たちは、皆こう呼ぶ)が大好きで、突然フラッと現れては、シュークリームを差し入れに持って来る。しかも子分みたいな友達を連れて。
何だか、やくざ映画に出るときの高倉健のような、『男はつらいよ』の寅さんのような、不器用さと可愛さを持っている男の子なのだ。

そしてフジタくん。高校をドロップアウトして就職活動に悩む彼を、明美ちゃんたちは献身的に世話するのだけれど…… かまってほしいけど余計なお世話だと、愛憎半ばにも似た感情を明美ちゃんたちに向けているフジタくんの姿は、個人的には他人事に思えない。
彼だけ、僕だけがそう感じるのではなく、それはきっと、皆に宿っている感情かもしれない。
そんな危うい感情の流れも、監督は追いかけている。その徹底ぶりに感心するし、この作品が丁寧な映画である証拠なのだとも思う。


子供たちというのは、本当にナイーヴで、繊細で、孤独な存在だ。どんなに虚勢を張っていても、その裏にある顔は誰かを求めている、居場所を求めている顔なのだ。誰だってそう、皆そうだ。
フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーだって、不仲な両親から逃れるために映画館へと逃げ込んだ。
映画館こそ、トリュフォー少年にとって救いの場所だった。映画は人を救う。
風和里に集まる子供たちも、強がって見せたり何でもないように振舞ったりして見せるものの、やはり誰かの愛情と、「自分がここにいても良い」という場所を欲している。
松本さん親子と風和里は、そんな子供たちにとってかけがえのない存在だ。
子供たちが抱えている問題の解決は、順調ではないかもしれない。

だが、風和里があったおかげで、明美ちゃんたちがいたおかげで、確実に子供たちは前へと進んでいる。
彼らを見て、こちらも元気をもらう。これぞ、映画と観客の良い関係。
『ぼくと駄菓子のいえ』は、観終わった後、心にスーッと気持ちいい風が吹くような、そんな映画です。


イラスト:城間典子

2018年3月1日木曜日

第7回 『はじまりのうた』を観て、音楽の楽しさを思い出してみるの巻。

{はじめに}
この文章は、2016年6月30日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第7回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。

今年に入っての初blogとなりました。読者の皆さん、大変お待たせしました。
本当は違う作品を、1月2月とそれぞれ用意していたのですが、挿絵担当があまりにも多忙のため、絵を描く時間さえ取れず……といった状態でした。

「う~ん、このまま何も更新せずじまいなのは良くない。どうしよう」と思っていたら、何のことはない、過去の文章を紹介すれば良いではないか、と今更気づいたのです。
なので今回は、遅れた2ヶ月分をドドンと投稿します。
3月に突入し、春がそこまで来ていますね。そんな心弾む季節にピッタリの映画を、再録という形ではありますが紹介したいと思います。


音楽との出会いは古本と同じで、いつだって一期一会。
その音楽との出会いによって自分の感情が変化し、人々が繋がり、和解し合い、周りの世界が(少し)変わる。
音楽がもたらす力は、途方もない。音楽は私たちにとって、最もポピュラーで身近な魔法である。
今回紹介する映画は、そんな音楽の魔法によって導かれた人々の映画だ。
その映画とは、2013年のアメリカ映画『はじまりのうた』の事である。



ダン(演:マーク・ラファロ)は落ち目の音楽プロデューサー。
商業的な面よりも、芸術的な面において新人を発掘したかった彼は、とうとう自ら創立したレコード会社をクビになってしまう。
ある日、バーで飲んだくれていたダンは、ステージで歌っていたイギリス人女性グレタ(演:キーラ・ナイトレイ)に可能性を感じ、彼女に「アルバムを作らないか」と持ちかける。


予算もスタジオもない、会社の人間にも取り合ってもらえない、しかし音楽仲間なら多少のツテがある。ダンは言う。「PCと編集ソフト、マイクさえあればどこでも録音できる」と。彼らは、NYのあちこちで演奏、屋外録音でアルバムを制作しようとする。
この一連の録音風景シーンが良い。

防音のためかマイクにストッキング的な物を巻き付けたり、地元の子供たちに協力を求めたり、地下鉄で演奏して警察に捕まりそうになったり、ビートルズのようにビルの屋上で演奏したり。
スタジオの中であるか外であるかだけの違いなのに、見慣れぬ光景故か心地よい違和感。手作り感に溢れていて、とても微笑ましく見える。
(これらの録音風景は、ミシェル・ゴンドリー監督の『僕らのミライへ逆回転』にどことなく似ている。他にもこの映画に近いものを感じるところがあるため、両者は腹違いの兄弟のようにも思える)

何より、彼らがとても楽しそうなのが良い。
音楽は芸術であり商業であり怒りであり癒しであるが、まずもって楽しいものだ。
それを彼らは、アルバムを作っていくなかで思い出していく。
プー太郎状態だった父親に愛想をつかしていたダンの娘も、アルバム制作にギターで参加することにより父を知り、音楽を楽しむ。音楽は人を繋げる。



お気に入りのシーンがある。
身の上話がきっかけで喧嘩をしてしまったダンとグレタ。だがそこでグレタは、ダンがかつて使っていた、2つのイヤホンを繋げて音楽を聴くことが出来るというスプリッターを見つける。
「どんな音楽を?」
「プレイリストは見せないわ」
「プレイリストで人の性格が分かってしまうからね」
「それが恥ずかしいの」
「……見せ合わないか?」

会話の後、2人はお互いの「お気に入りの音楽たち」を聴きながらNYの街を歩き回る。
いつも見慣れてるはずの風景も「音楽の魔法」で彩りのあるもの、意味のあるものに変身していき、2人はついつい踊ったりなんかしちゃったりして!
ゲリラ的に撮られているこのシーンも、何とも生き生きとしていて素敵だ。

人物たちが生き生きしているのは勿論だが、映画そのものが音楽にウキウキして呼吸しているような感じだ。
2人の会話や楽しそうに街を歩くのを観ていると、こっちも「嗚呼、ホントにそうだよなぁ~」と、うんうんと頷いてしまう。

僕もケータイに入っている音楽を聴きながら、色んな所を歩き回るのが好きだ。
(自分だけじゃなく、他の人もそうだろうけどね……)


 気持ちいいドライブにしたい時、ひとりで物思いに耽りたい時、アイディアに詰まった時、どうしようもない時、気分を盛り上げたい時、思い出の曲を聴いて昔を思い出す時、たまたまラジオを聴いている時、大切な人と時間を過ごす時etc……音楽は傍にある。
たとえ聴くためのものが無くとも、覚えていれば自分でも歌える。
音楽は本当に、僕たちが思っている以上に生活に密着しているように思う。
僕はご飯を食べるように映画を観、映画を愛しているけれど、この映画に出てくる人物たちもご飯を食べるように音楽を愛している。

それはきっと彼らだけなのではなくて、僕も、これを読んでいる貴方もそう。
そして音楽のもたらす力と楽しさを噛みしめながら、またきっとこの軽やかで素敵な映画を観るのだろう。


イラスト:城間典子