2023年6月1日木曜日

第22回 3年ぶりの『はちどり』は如何に映ったか?

こんばんは! 
皆さん、お元気でしょうか。
僕は元気です。なんと3年ぶりの更新となってしまいました。
このblogを楽しみにしてくれている(有難くも奇特な)皆さん、どうもお待たせしました!

3年以上もblog投稿が空くと「どんな具合で書けばいいんだ」とか「何を復活第一弾にすればいいんだ」などと、独りで意味もなくテンパってしまうものです。

そこで今回は、3年前の2020年当時、ベスト級に良かった映画を紹介する事にしました。
その作品は、キム・ボラ監督による韓国映画『はちどり』(2018)です。

『はちどり』(2018年 監督:キム・ボラ)


2020年に話題を呼んだ韓国映画と言えば、ポン・ジュノ監督の『パラサイト 半地下の家族』(2019)が真っ先に思い浮かびますが、本作も結構話題の映画でした。
本作が長編デビュー作であるキム・ボラ監督の確かな演出力は世界各国で絶賛され、単に映画祭で評価されただけでなく、韓国内でも単館公開規模ながら公開一ヶ月で観客動員数12万人超という驚異の大ヒット。国内外で評価された映画だったのです。

もう数年前のことなので、何をキッカケとして観に行ったのか朧げなのですが、観終わった時に「この映画は、自分にとって大事な映画になるな」と思ったものです。
先日も観なおす機会があったため、久しぶりに本作と向き会いました。
今回は「どうして、自分にとって大事な映画だと思ったんやろう」と思いながら観ていました。
良い意味での疑問を抱きながら観、終わった頃には「うん、やっぱり大事だ」と改めて思わされました。
今回は、その「良いと思った何か」を自分なりに考えながら、紹介していきます。


1994年、韓国のソウル。14歳のキム・ウニは両親、兄、姉の5人で暮らしている。
両親からは世間体の良さばかりを求められ、学校にはなじめず、同じ塾に通う親友との時間や彼氏の存在が彼女にとって救いであり癒しでもある。
家庭や学校である種の息苦しさを感じていた彼女の前に、新しい塾の教師が現れて……。


男性優位的な社会観、そして「良い大学に入る」ことこそが最高のゴールだと言わんばかりの両親や学校。ウニでなくとも「嫌~な青春」というカテゴリーに入ってしまいそうな日々。
この作品の舞台となっている90年代は、正にキム・ボラ監督が13~14歳の少女として、青春を謳歌している時代でした。すなわち、ウニの姿は当時の監督の姿でもあるワケです。
「当時は当たり前すぎて疑問に思わなかった、考えていなかったけど、後から考えるとオカシナ事だったなぁ」と思ったりする機会が皆さんにもあるかもしれません。
ボラ監督も、そのように当時を振り返りながら撮影をしたのでしょう。

インタビューの中でも「人が生きるうえで感じるすべての感情を、少女の生活を通じて見せたかったし、政治、社会、フェミニズム、ジェンダーといった様々な社会的な問題を、少女の目を通じて、微細なところから見わたそうと努力しました」と言い切っています。
これはその当時を生きた監督が、今現在だから語れる、描けることであります。
いわば本作は、現在に生きる監督が、かつて自分が生きた90年代の韓国を批評するかのような作品でもあるのです。

映画にせよ本にせよ、どうも僕はこのような「個人を通して歴史を、限られた時代を描く作品」に弱いらしく、オールタイム級に大好きな『ぐるりのこと。』(2008)と本作の性格はよく似ていると、初見の際に感じたものです。
やはり大衆で物事を語られるより、個人の生き様で語ってくれる方が、観ている側にとって伝わりやすいからでしょうか。なんと身も蓋も無い分析なんでしょうか。

『はちどり』では、ウニの目線で全てが語られていきます。
自分に対し、やたら両親が冷たい態度をとっていると思いきや、その直後には何事も無かったかの如く一緒に食事をとっている不思議。
親の言う通りに勉強ばかりして、その鬱憤を自分に向けてくる兄の理不尽さ。
彼氏のところへ行ったり家へ連れ込んだりする姉の大胆さに、驚きと少しの憧れを抱かずにはいられなかったり。
皆それぞれの方向ばかり見ていて、まるで自分のことなんて見てくれやしない。
そんなやけっぱちな気分にもなってしまいそうですが、どっこいそこは家族と言うべきか、そこまで冷たい感じでもありません。

ウニの耳後ろ辺りにしこりが出来て、それを手術する際に「顔面麻痺が起こりうる」と医者に言われた時。ウニ以上に動揺し、声をあげて泣く父親の姿は、それまで映っていた家父長制社会の権化のようだった人物と別人のようです。しかし、娘を心配しなくこの姿も一つの顔なのです。
叱ったりすることも多いものの、ウニに「ダメな娘」という烙印を押し付けて放っておくでもなく、彼女のお腹が空いてそうならチジミを作ってあげる母親。
「この父親は〇という性格、母親は△な性格」というカテゴライズをするのではなく、「父親は〇な性格が主だけど、時には×な性格の時だってある」という通り一遍ではない描き方。
もっと言えば「人間の持つ割り切れなさ」を、本作は唐突に、しかし丁寧に描いています。


そしてウニの前に現れる一人の女性。漢文塾の新しい教師であるヨンジの登場は、ウニにとって「大人」の価値観を覆す出会いでした。
不良生徒のように煙草を燻らせる姿、授業前に描いていた漫画に興味をもって話しかけてくれたこと、友だちや彼氏との関係が上手くいかなかった時なども、お茶をふるまい話を聞いてくれた……。
自分の見てきた大人たちとは何かが違う、その何かに憧れや親しみを覚え、ウニはヨンジに心を開いていきます。
人はよく、自分にないものを相手に求め、それに憧れることが多々あります。
ウニも当初はそうだったでしょう。しかしウニは気づいていきます。
ヨンジは自分をひとりの人間として見てくれている。だから私はこの人といると安心するし、落ち着けるのだと。
自分よりも相手を下に見ている態度というものは、すぐ相手に伝わるものです。
「近頃の若いもんは…」「年上だから伝えれる事がある」「お前たちバカを私が鍛えてやる」「お前は俺のところに働かせてもらっているんだ」etc……ウンザリしちゃいますね!

ヨンジ自身が大学休学中である学生、つまりウニと年齢が近かったことも大きいのでしょうが、彼女は当時の世の中の流れとは対極的な存在であるかのように見えます。
労働運動で歌われた『切れた指』を歌う場面、大学を休学中でバイトを転々としている… と語る場面など、ヨンジは学生運動に参加していた人物ではないか(この事はパンフレットに記載されていた監督インタビューの中にも明記されていました)、つまりヨンジは、それまでの「世代」とは違う「新たな世代」の人であるということです。
新しい世代は何かと煙たがられるものです。ロックンロールが流行しだした頃など、良い例ですよね。しかし新世代の台頭は、よくも悪くも社会が変革する時。
ウニがヨンジと出会った時間こそ、それまでの価値観から一歩踏み出そうとしている韓国変革の真っ只中なのです。

両親たちの世代、ヨンジたちの世代、そしてウニたちの世代と、3つの世代が邂逅し、それぞれに変化が生じていく。
『はちどり』は単なる「少女が過ごした青春の一ページを切り取った映画」ではなく、当時の韓国の情勢を見事に取り込み、描ききった映画であるのです。
ただ、こう書くと人物たちの言動、動作といったものが図式化された、いわば「監督のメッセンジャーとしての機能」に陥ってはいやしないか、と考える方もいるかもしれません。
が、それは大丈夫です。それぞれの人物たちは「役の役割」を軽々と超え、見事に劇中の時間を「生きて」いますから!

本作では度々、ウニを背中から捉えたショットが映し出されます。
「見えない」という事が想像力を刺激するように、私たち観客も表情の見えないウニに想いを馳せます。
その場面で彼女の考えているもの、彼女が背負っているもの、そして彼女の視線の先にあるもの……。
この映画には様々な要素が散りばめられているワケですが、僕が本作をとても好きになってしまったのは、この絶妙な「背中ショット」があるから、つまりこのショットで築かれる「間」が、観客に対して、映画や人物についての想像の時間を与えてくれるからではないかなぁと感じます。
映画には時間経過を示す「視覚的な間」と、人物や映画そのものの内面に迫る「感覚的な間」の2つがあります(と、僕は常々思っています)。
『はちどり』は、この『感覚的な間』の描き方が、非常~に上手い気がしたのです。
単に「この背中ショット、決まってるねぇ!」と直感で気に入っただけかもしれませんが……。
ともあれ、この「背中ショット」は下手な人がやると本当に下手くそなので、やっぱり上手いんです。ショットを入れてくるタイミングや、映す長さが。

と、長々と書き連ねてきた『はちどり』覚え書きでしたが、やはり映画の魅力を言葉にするのは難しいです。
頭でっかちな文章だなぁと我ながら思うのですが、もしこれを読んで少しでも映画に興味を持っていただけたら(そして観ていただけたら!)、書いた甲斐もあるというものです。

挿絵:城間典子