2024年4月1日月曜日

第32回 『PERFECT DAYS』を観てからの、僕のDAYS

こんにちは!
突然ですが……わたくし岩佐悠毅は、本ブログの挿絵を担当している城間典子さんと昨年結婚し、今年の2月に大学時代から住んでいた京都を離れて、故郷の大分県へ戻ってきました!
引っ越しのアレコレ、身の回りの環境への適応、新しい仕事が少~し落ち着いてきて、やっとブログに手をつける事が出来ました……。

地元の佐伯市ではなく、大分駅やトキハ(大分県が誇る百貨店)本店がメチャ近い大分市内ど真ん中が、僕たちの今の住まいです。少し(30)歩けば食べ物屋はあるし、商店街も近い、面白い本屋も映画のポスター屋もある、といった恵まれた立地。
忘れちゃいけない映画館も、地元にいた頃からお世話になっているミニシアター・シネマ5が徒歩3分。
ありがたや~。シネマ5で観た映画たちも、ドンドン紹介していきたいですね。

今回ご紹介する映画は、離れる前の京都で1回、大分へ越してきてから1回と(今のところ)合計2回鑑賞し、アカデミー賞も受賞してホットな話題を振りまく『PERFECT DAYS(以下、パーデイ)です。

PERFECT DAYS(2023 / 主演:役所広司 / 監督:ヴィム・ヴェンダース)
渋谷の公共トイレ清掃員・平山(演:役所広司)の淡々とした日常を丁寧に追う本作。

大好きなヴェンダース監督が、『東京画』(1885)『夢の涯てまでも』(1991)以来、本格的に東京の街を撮ると聞いて、ワクワクが止まらず、期待大にして映画館に向かいました。が……何だろう、この違和感。この映画が評価されるのは分かるし、事実「良い映画だな」とは思うのですけれど、何だかな~な部分も感じたのでした。
とりあえず本作で感じた事を書き連ね、それでもこの映画から受けた影響、考えを書きたいと思います。

平山の日常は「流れ」として完成されており、ルーティーンが映し出されていく中で「平山が大切にしている事」「周りの環境」が見えてきます。それが……。

思わず「悟ってんのか」と言いたくなるくらい自分の世界・生活に準拠している平山はともかく、周りの人物たちのキャラクターがいかにも作り物くさく、作り手側が言っている「平山のドキュメンタリーのつもりで云々」が白々しく聞こえてしまうのです。
特に平山の同僚であるタカシ(演:柄本時生)の軽薄な若者像は、観ているこっちが「(演じてる)時生かわいそうだな…」といたたまれなくなる始末。
本作に限らず、口癖のある人物を描く時って凄くキャラクター感が出てしまう場合が多いと思います(『シン・仮面ライダー』とか)

人物に留まらず、平山の路駐自転車描写とか田中泯扮するホームレスの描写など、現実の東京なら「即アウト、撤去もんだろ!」とツッコみたくてしょうがない!
野暮な見方だと思うものの、こういう細かい部分が嘘くさいと、映画全体が嘘っぽく見えて勿体ないなぁと。


劇中で平山は、姪っ子のニコ(演:中野有紗)に対して「この世界は、本当はたくさんの世界がある。繋がっているように見えても、繋がっていない世界がある」と語ります。
これは平山の背景にも重要な意味を持ってくる台詞なのですが、この台詞がある事によって、逆に平山の世界が凄く閉じられたもののように感じられたのです。

平山の徹底した生活は、外部からの「世界の持ち込み」を歓迎しません。行きつけの銭湯や居酒屋のテレビから流れるのは野球や相撲ばかりで、日本や世界の現状は伺えない。
本こそ読むけれど、映画なども観に行かない。これまでの作品で映画愛を謳ってきたヴェンダースが「映画」を持ち込まなかったのは、「もう一つの世界との出会い」を徹底して除こうとしたのだと感じました。
(同じ時期に観たアキ・カウリスマキの『枯れ葉』(2023)とは、その意味で凄く対照的です)

この映画の中での「世界」との繋がりは人と人との間にしかなく、だからこそ日々をキッチリと過ごす平山が、思わぬ人物と出会ったりコミュニケーションを取る際にうろたえたりするのかな、とも感じました。
もっとも、そのうろたえた時に平山の“人間らしさ”が見えてきて好印象なのですが。


と、色々と文句じみた感想を書きましたが、だからといって嫌いになれないのが本作、というかヴェンダースの映画。素直に「良いなぁ」と思える点もやっぱりありました。

先ずは映像。
ヴェンダースの映画に映る都市は、いつだって異世界。見慣れた光景が映し方ひとつ変えるだけで初めて見るような感覚に陥ります。
早朝の淡い光に包まれた東京の画、車を走らせながら通り過ぎる光景、カメラを向け、日々変化する木漏れ日を撮る瞬間。
写真家の森山大道に深く共鳴するのと同じように、僕はヴェンダースの映像に、その狩人のように風景を切り取っていく視点に共鳴します。

平山がニコと自転車を走らせるシーンは、役者が映っているシーンの中で最上の場面ではないでしょうか。ここにはヴェンダースお得意の即興感溢れるキャメラと、眩しいほどの役者と風景の融合が見られます。

劇中は自転車2台が光の中を並走します。それはそれは美しいシーンなのです。

そして音楽。
極論させてもらうと、平山の日々を音楽のみで語らせる事も出来たのではないかと感じるのです。
それほどに本作に流れる音楽は平山を、映画の時間を代弁しており、台詞以上に雄弁です。
(ルー・リードの『PERFECT DAY』の使われ方は、いかにも俗っぽくて初見時は「ありえない」なんて思いましたが、2回目に観るとその俗っぽさが平山の人間臭さに繋がっているようで微笑ましく観れました)

映画の時間に寄り添った選曲。これは良い意味でも悪い意味でもPV的な使い方です。
実際、今までのヴェンダース映画以上に使われ方が俗っぽいんですよ。キンクスとか、ニーナ・シモンとか。
しかし、こういう使い方って僕たちが日常生活にやってしまいそうな選曲だなって思ったときに、逆に「今まで以上に作る側と観る側の距離感を近くに感じさせる曲選びだな」と感じたのです。そう思うと、「こういう使い方もアリなんだ!なるほど~」と感心しました。


ヴェンダースは本来「脚本の映画」よりも「撮影の映画」を撮ってきた人であり、本作は(個人的に)「脚本の映画」部分が少し強かったような気がします。
人物の会話になると、どうしても脚本以上のものが見えてこず、それが世界観の狭さに見えてくるのかもしれません。
ただ、自転車、車、そして影踏みと、何かが“動く”シーンになると途端に良く見える。それは脚本の束縛を乗り越える“運動”故に生じた映画の感動なのでしょう。
不満点も多いけれど何だか憎めない。僕がパーデイに思うのはそんな感情でした。


ただ、都会での新生活を始めた身からすると、日々を慣らしていく意味も込めて、平山のように日常を「流れ」で過ごせるようにしていこうと、少なからず影響を受けているようなのです。
「洗濯物を回し、干す」というのを出勤前にすることで生まれる早起き。開拓中だからこそ生まれる新しいお店との出会い、常連化。スマホをなるだけ見ず、読書に割り当てる時間。思い切りオフを楽しむために足を運ぶ本屋や映画館……。
本作を観て以降、京都生活でも心がけていた「生活のリズム、オン・オフ感」を、より意識したように思います。

物欲にまみれた自分には平山のようなミニマリストにはなれそうもありませんが、日々のリズムを意識的に作ってみたり、自分の中で大切にしたいものをハッキリと表明させていくことは出来そうです。

パーデイのチラシを自分流に描きました。難しいポーズ!

イラスト:岩佐悠毅
新生活の気分を、僕の分身ことマスター君に乗せてみました。
自転車って、描くの難しいですね。