2018年3月31日土曜日

第9回 まっすぐな瞳を見つけて……『ぼくと駄菓子のいえ』を観る。

{はじめに}
この文章は、2017年1月15日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第13回の文章を再録したものです。


桜の花が満開になり、明日からはもう4月です。
新しい季節、生活の始まりという感じが、町のあちこちからします。
実は僕も、27日に引っ越しをしたばかり。
とは言っても、前の住んでいた所から10~15分ほど離れただけなのですが。
しかし、えらくのどかな場所でして、日当たりは良くて目の前は畑が広がって…… と、自分語りはこれくらいにして。
今回ご紹介する映画は、そんな新しい季節を迎える僕たちに、気持ちのいい風を感じさせるようなドキュメンタリー映画です。 
 
 
規模の大小こそあれど、駄菓子屋という場所は昔から、子供たちのコミュニケーションの場、情報交換の場、交流の場である。
僕もかつては駄菓子屋で、ただ駄菓子を買うのではなく、たむろして取り留めのないお喋りに花を咲かせたり、駄菓子屋前でカードゲームをしたりしたものだ。
時には仲のいい先輩を捕まえ、駄菓子を奢ってもらうという事もあった。
小学校から物凄く近い所にあったため(ほとんどご近所さんみたいなもんだった)、みんな駄菓子屋に寄るし、遊ぶ時の集合場所にもなった。
今思い返すだけでも、子供にとって駄菓子屋という場所は、切っても切れない縁のある場所であったように思う。

そして、果たす役割も物凄く大きい。
駄菓子屋とは、子供たちにとっての、まず最初に出会う「社交場」なのだろう。
 

今回紹介する映画は正に、駄菓子屋が社交場となっていて、そこに集う子供たちと店のおばちゃんたちとの交流の記録である。
(ところで、駄菓子屋やラーメン屋とかに行くと、その店にいる女の人の事を「おばちゃん」と呼んでしまいたくなる事ってありませんか? いかに年が若かろうと……)




大阪府富田林市にある駄菓子屋「風和里(ふわり)」。
松本明美さんとその娘よしえさんの親子二人で営んでいるこのお店には、学校帰りの子供たちの声で溢れている。
しかしその中には、家庭や学校の問題により居場所をなくした子供たちもいる。
そんな彼らに対し明美さんとよしえさんは、時にはお母さんのように優しく、時には厳しく接していく……



僕がこの映画に好感を持ったのは、監督の視線だ。愚直なまでの、まっすぐな視線。
奇を衒ったりナレーションなどで簡単に済ませるのではなく、撮影する対象とがっぷりと四つに組む姿勢。
カメラもまた、風和里を訪れるお客のような距離感で、お店の中、あるいは外で、彼らの話を聞き始める。そんな映画の作り方。
簡単なようで、実はとても時間と根気のいる姿勢だ。
そのおかげで、キャラ立ちしている人物たちに負けない、シンプルながら力強い映像になっていると思う。
松本さん親子をはじめ、風和里に集まる「問題を抱えた」子供たちもまた、魅力的な人物たち。
特に印象に残ったのは、小5にして親分みたいな貫禄のある、こうせい君だろうか。
彼も両親の問題が元で、心中穏やかではない。
だが彼は明美ちゃん(風和里の子供たちは、皆こう呼ぶ)が大好きで、突然フラッと現れては、シュークリームを差し入れに持って来る。しかも子分みたいな友達を連れて。
何だか、やくざ映画に出るときの高倉健のような、『男はつらいよ』の寅さんのような、不器用さと可愛さを持っている男の子なのだ。

そしてフジタくん。高校をドロップアウトして就職活動に悩む彼を、明美ちゃんたちは献身的に世話するのだけれど…… かまってほしいけど余計なお世話だと、愛憎半ばにも似た感情を明美ちゃんたちに向けているフジタくんの姿は、個人的には他人事に思えない。
彼だけ、僕だけがそう感じるのではなく、それはきっと、皆に宿っている感情かもしれない。
そんな危うい感情の流れも、監督は追いかけている。その徹底ぶりに感心するし、この作品が丁寧な映画である証拠なのだとも思う。


子供たちというのは、本当にナイーヴで、繊細で、孤独な存在だ。どんなに虚勢を張っていても、その裏にある顔は誰かを求めている、居場所を求めている顔なのだ。誰だってそう、皆そうだ。
フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーだって、不仲な両親から逃れるために映画館へと逃げ込んだ。
映画館こそ、トリュフォー少年にとって救いの場所だった。映画は人を救う。
風和里に集まる子供たちも、強がって見せたり何でもないように振舞ったりして見せるものの、やはり誰かの愛情と、「自分がここにいても良い」という場所を欲している。
松本さん親子と風和里は、そんな子供たちにとってかけがえのない存在だ。
子供たちが抱えている問題の解決は、順調ではないかもしれない。

だが、風和里があったおかげで、明美ちゃんたちがいたおかげで、確実に子供たちは前へと進んでいる。
彼らを見て、こちらも元気をもらう。これぞ、映画と観客の良い関係。
『ぼくと駄菓子のいえ』は、観終わった後、心にスーッと気持ちいい風が吹くような、そんな映画です。


イラスト:城間典子

2018年3月1日木曜日

第8回 『愛しのタチアナ』こと、ゆる旅コーヒーの巻。

{はじめに}
この文章は、2016年2月18日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』番外編の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。

『はじまりのうた』に続く「春にピッタリ!? 怒涛の2連発投稿」の次なる作品は、大好きなフィンランドの監督、アキ・カウリスマキ監督の『愛しのタチアナ』です。
この掌編と言ってもいい映画が、大好きなんですよ……まぁ、本文中にも書いてあるとおり、コーヒーと旅がメインだから、という単純な理由が大きいのですが。
そう言えば先日、最新作の『希望のかなた』(2017)を観たのです。素晴らしいの一言でした。
この映画も、いずれ当ブログで取り上げたいと思います。



ドラえもんではないが、「あんなこと良いな、出来たら良いな」などと実生活において思うことはないだろうか。僕は何度となくあるが、中でも「車の中で淹れたてのコーヒーが飲めたら」が実現してほしいこと№1だ。
缶コーヒーでもドライブインのコーヒーでもなく、自分で淹れた、自分のコーヒーをである。
そんな僕の願望を、フィンランドの映画監督であるアキ・カウリスマキが映画の中で実現させていた。

その作品を観たとき、僕は「コレだよコレ!」と感嘆したものだ。
その映画こそ、今回ご紹介する『愛しのタチアナ』(1994)というモノクロのロードムービーだ。


アキ・カウリスマキという監督は、現役で活躍している映画監督の中で一番「人を食った」映画を撮る男である。
原色バリバリのセット、魅力的であろうフィンランドの風景をあえて撮らない、登場人物は始終しかめっ面で感情の起伏に乏しい。
映画の中に必ず1回は音楽の演奏シーンが挿入される(作品によっては、歌いきるまで映す作品も!)。
すっとぼけたユーモアが全編を覆っているが、ただ単に面白おかしいのではなくて、不況や難民といった政治的問題をテーマにしている作品が多い。
そのあまりにもブレない映画スタイルは、数多くのファンが世界中にいる。

『愛しのタチアナ』は62分という短い作品で、愛すべき佳作といった趣きなのだが、「カウリスマキ歴」においては重要な作品でもある。
彼のデビュー作『罪と罰』(1983)から出演し、カウリスマキ映画の看板俳優であり続けた俳優、マッティ・ペロンパーの遺作なのだ。
ちなみにこの愛しき俳優は、見た目がオットセイのような人相なので、彼の出ている作品を一度観てしまえば一発で覚えてしまう、俳優の顔を覚えるのが苦手という人にとても優しい俳優でもある。


物語は、コーヒー中毒の仕立て屋ヴァルトが母と家で仕事をしているところから始まる。
このヴァルトという(一応の)主人公が、只者ではなかった。
ヴァルトはコーヒー豆が切れている事にキレて、あろうことか母親を物置に閉じ込め、彼女のお金を拝借し、家を飛び出すのである。
僕もコーヒー大好き人間だが、いくらコーヒー豆が切れているからといって実の母親を閉じ込めはしないよ。
ヴァルトは修理に出していた愛車を引き取りに、修理工レイノ(これを演じるのが、我らがマッティである)の元へ赴く。そして2人は退屈な日常から解放されるため、車で旅へ出た!

……という爽やかな映画ではない。
初めのうちこそ、ヴァルトは車中で大好きなコーヒーを淹れて飲んだり(ここでドライブ用のドリップ式コーヒーメーカーを用いてコーヒーを淹れるのだ。欲しい!)、レイノはレイノで大好きなウォッカをラッパ飲みしながら喋りまくる。
カウリスマキ映画にしてはご機嫌な幕開けかと思いきや、夜になって2人はすっかり黙り込む。
よし、いつものカウリスマキ映画だ。

2人はある店に立ち寄るが、そこで2人の外国人女性と出会う。
1人はエストニア人の女性タチアナ(この役を演じるは、マッティに次いでアキ組常連の女優カティ・オウティネン)、もう1人はロシア人女性クラウディア。
彼女たちはフィンランドへ出稼ぎに来ていたらしく、ヘルシンキの港まで送ってほしいという。
男女4人のドライブ&恋愛ゲームの始まり……とはならない。
ホテルに一泊することになった4人。
さも当然かというように、タチアナはレイノの部屋へ行き、クラウディアはヴァルトの部屋へ。
2人きりになったからといって、ムフフな感じにならないのはお約束。
食堂に行ってもお金がなく、マズいコーヒーを飲むだけ、煙草を吸うだけ、つまらない話をするだけの殺伐とした状況。
しまいにはレイノが「もう寝る」と言い出す始末。
お互いにとって散々な夜だろう。

結局何もないままホテルを後にし、旅を続け、野宿をする羽目になった4人。
ヴァルトとクラウディアが車中で休んでいる間、レイノは勇気を出して車から離れたところで座っていたタチアナの横へ座る。
するとタチアナ、無言でレイノの肩にもたれかかる。そしてレイノはタチアナの肩にそっと腕を回すのだ!
ホテルの時はロクに言葉も交わさなかった2人だが、ちゃんと心は伝わっていたようだ。
この映画唯一のラブシーンだが、「愛してる」などと言ったり、セッ○スをするでもない、不器用だがそれ故にグッとくるラブシーンだ。


別れる直前、女性2人が最後のお礼にと紅茶とサンドイッチを奢ってくれることに。
最初は男たちを小馬鹿にしていたようでもあったが(主にクラウディアが)、彼女たちは感謝の念を忘れてはいなかったのだ。
いつもコーヒーやウォッカばかり飲んでいる男たちの、微妙な反応がまた面白い。
港へ着いて、さぁお別れ。かと思いきや、心変わりした男2人も車ごと乗船してしまう。

思わぬ、だがユル~く再会した4人。
船上でレイノとタチアナのカップルはより仲を深めていく。
下船し、まずクラウディアとお別れ。彼女はヴァルトに小包を渡すが、これは一体なんだろう?
さて次は、タチアナを家まで送ろう。無事送り届けた男たち。
ヴァルトが帰ろうと促すが、レイノは残って彼女と暮らすと言い出した。しかも作家になるとまで宣言。
な、何故に作家なのだ。そんな伏線今まで1つも無かったがな。
大真面目に言うレイノことマッティ・ペロンパー。とりあえず笑わせてもらいました。

図らずも1人で帰ることになったヴァルト。
誰もいない船内で、クラウディアから貰った小包を開けると、なんと電気式コーヒーミルが。
これはたまらない。
コーヒー好きだから貰って嬉しいのは勿論のこと、ほとんど相手をしなかった女性から貰うなんて。なんて素晴らしい贈り物。
突然、あるお店に車が突っ込んだ。顔を出したのは別れたはずの4人。コーヒーを注文し、テレビに映るロックンロールに見とれる4人。

かと思えば、それはヴァルトの妄想だった。ドライブスルー的なお店のテレビで、ヴァルト1人がロックンロールの映像を見ていたのだった。思い出は彼方に……といった感じか。
家に帰ったヴァルトは、物置から母親を解放し、また仕立て屋の仕事に戻る。

冒頭のシーンに戻った。
だが決定的に違うのは、自分を含め4人でグダグダな旅をしたこと。かけがえのない贈り物を貰ったことである。


観客が「次はこう来るだろう」と思っている予想を、スルッと何食わぬ顔でかわしていくのがカウリスマキ映画の真骨頂であり、この映画も例外ではない。
まぁ、カウリスマキ映画に一般映画のような恋愛シーンを期待したりするのがそもそも間違いなのであるが。
カウリスマキ自身が明言するように、彼は小津安二郎やフランス人監督のロベール・ブレッソンの影響を多大に受けている。
したがって、
台詞が少ない、
フィックスの画、
手や小道具のアップ、
(リアクションのほぼない)俳優たちの顔のショットなどで映画が構成されている。

最初の方でカウリスマキ映画の特徴をつらつらと書いたが、まず第一にこのような映画の作り方をしているということが重要だ。
そのため、俳優たちの何気ない顔や動作に注意がいき、その動きがいちいち面白く感じられる。
意味深なショットを撮っているというよりは、「こういう語り口しか知らないんだよ」と言わんばかりなので、観ているこちらは滑稽に感じるし、彼のこうしたブレない撮り方に安心する。
ハマると一生抜け出せそうにないのが、アキ・カウリスマキの魅力だ。


何故、数ある作品たちの中から『愛しのタチアナ』を今回選んだのかというと、実はたいした理由はなく、観やすい上映時間、基本はすべて押さえてある(カラーではないのが押さえられていない箇所だが)カウリスマキ流映画作り、マッティ・ペロンパーの遺作であること、そして何より「コーヒー」と「車で旅をする」という、個人的にマストなポイントが前面に出ている映画であるからなのであった……

イラスト:城間典子

第7回 『はじまりのうた』を観て、音楽の楽しさを思い出してみるの巻。

{はじめに}
この文章は、2016年6月30日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第7回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。

今年に入っての初blogとなりました。読者の皆さん、大変お待たせしました。
本当は違う作品を、1月2月とそれぞれ用意していたのですが、挿絵担当があまりにも多忙のため、絵を描く時間さえ取れず……といった状態でした。

「う~ん、このまま何も更新せずじまいなのは良くない。どうしよう」と思っていたら、何のことはない、過去の文章を紹介すれば良いではないか、と今更気づいたのです。
なので今回は、遅れた2ヶ月分をドドンと投稿します。
3月に突入し、春がそこまで来ていますね。そんな心弾む季節にピッタリの映画を、再録という形ではありますが紹介したいと思います。


音楽との出会いは古本と同じで、いつだって一期一会。
その音楽との出会いによって自分の感情が変化し、人々が繋がり、和解し合い、周りの世界が(少し)変わる。
音楽がもたらす力は、途方もない。音楽は私たちにとって、最もポピュラーで身近な魔法である。
今回紹介する映画は、そんな音楽の魔法によって導かれた人々の映画だ。
その映画とは、2013年のアメリカ映画『はじまりのうた』の事である。



ダン(演:マーク・ラファロ)は落ち目の音楽プロデューサー。
商業的な面よりも、芸術的な面において新人を発掘したかった彼は、とうとう自ら創立したレコード会社をクビになってしまう。
ある日、バーで飲んだくれていたダンは、ステージで歌っていたイギリス人女性グレタ(演:キーラ・ナイトレイ)に可能性を感じ、彼女に「アルバムを作らないか」と持ちかける。


予算もスタジオもない、会社の人間にも取り合ってもらえない、しかし音楽仲間なら多少のツテがある。ダンは言う。「PCと編集ソフト、マイクさえあればどこでも録音できる」と。彼らは、NYのあちこちで演奏、屋外録音でアルバムを制作しようとする。
この一連の録音風景シーンが良い。

防音のためかマイクにストッキング的な物を巻き付けたり、地元の子供たちに協力を求めたり、地下鉄で演奏して警察に捕まりそうになったり、ビートルズのようにビルの屋上で演奏したり。
スタジオの中であるか外であるかだけの違いなのに、見慣れぬ光景故か心地よい違和感。手作り感に溢れていて、とても微笑ましく見える。
(これらの録音風景は、ミシェル・ゴンドリー監督の『僕らのミライへ逆回転』にどことなく似ている。他にもこの映画に近いものを感じるところがあるため、両者は腹違いの兄弟のようにも思える)

何より、彼らがとても楽しそうなのが良い。
音楽は芸術であり商業であり怒りであり癒しであるが、まずもって楽しいものだ。
それを彼らは、アルバムを作っていくなかで思い出していく。
プー太郎状態だった父親に愛想をつかしていたダンの娘も、アルバム制作にギターで参加することにより父を知り、音楽を楽しむ。音楽は人を繋げる。



お気に入りのシーンがある。
身の上話がきっかけで喧嘩をしてしまったダンとグレタ。だがそこでグレタは、ダンがかつて使っていた、2つのイヤホンを繋げて音楽を聴くことが出来るというスプリッターを見つける。
「どんな音楽を?」
「プレイリストは見せないわ」
「プレイリストで人の性格が分かってしまうからね」
「それが恥ずかしいの」
「……見せ合わないか?」

会話の後、2人はお互いの「お気に入りの音楽たち」を聴きながらNYの街を歩き回る。
いつも見慣れてるはずの風景も「音楽の魔法」で彩りのあるもの、意味のあるものに変身していき、2人はついつい踊ったりなんかしちゃったりして!
ゲリラ的に撮られているこのシーンも、何とも生き生きとしていて素敵だ。

人物たちが生き生きしているのは勿論だが、映画そのものが音楽にウキウキして呼吸しているような感じだ。
2人の会話や楽しそうに街を歩くのを観ていると、こっちも「嗚呼、ホントにそうだよなぁ~」と、うんうんと頷いてしまう。

僕もケータイに入っている音楽を聴きながら、色んな所を歩き回るのが好きだ。
(自分だけじゃなく、他の人もそうだろうけどね……)


 気持ちいいドライブにしたい時、ひとりで物思いに耽りたい時、アイディアに詰まった時、どうしようもない時、気分を盛り上げたい時、思い出の曲を聴いて昔を思い出す時、たまたまラジオを聴いている時、大切な人と時間を過ごす時etc……音楽は傍にある。
たとえ聴くためのものが無くとも、覚えていれば自分でも歌える。
音楽は本当に、僕たちが思っている以上に生活に密着しているように思う。
僕はご飯を食べるように映画を観、映画を愛しているけれど、この映画に出てくる人物たちもご飯を食べるように音楽を愛している。

それはきっと彼らだけなのではなくて、僕も、これを読んでいる貴方もそう。
そして音楽のもたらす力と楽しさを噛みしめながら、またきっとこの軽やかで素敵な映画を観るのだろう。


イラスト:城間典子