2018年10月30日火曜日

第14回 『鬼火』が消える頃に。


僕の誕生日は10月2日、つまり秋のど真ん中。それもあってか、秋が一番好きな季節です。
カラッとした空気感が実に過ごしやすいし、芸術の秋と言われるだけあって、読書にもってこいの季節だし。
しかし同時に、寂しさの募る季節、という思いもあります。
空気感がそう思わせるのでしょうか。そしてそれ故でしょうか、ピアノの音が恋しくなってきます。
今年は何故か、特にピアノの曲が聴きたくなったので、手元にあるピアノアルバムを引っ張り出しては聴くのですが、
どうもジャズのアルバムだと違うようです。
『1999年の夏休み』のおかげで聴くようになった、中村由利子さんのアルバムは…… 良いですねぇ、ピッタリきますねぇ!
要するに、どこか湿り気と言うか、感傷的な雰囲気のピアノの音を求めているようなのです。
そしてもう一人、エリック・サティ。

彼の作り出したピアノの曲たちは、今の僕に深く沁みてきます。
一聴しただけだと暗いようなイメージを持ってしまうサティ。
しかし何度も聴いていくうちにその儚い音の調べが、自分に寄り添ってくれているような優しさを感じる事が出来ます。
いつでもサティの音楽に浸るため、高橋悠治氏によるサティのCDを購入しちゃいました。


さて、そんな中でお送りする「怒涛の4連発投稿」第3弾は
そのサティの曲が全編に渡って流れるフランス映画『鬼火』(1963)をご紹介します。
監督は『死刑台のエレベーター』(1958)で鮮烈な長編映画監督デビューを飾った、ルイ・マルです。



ニューヨークでの結婚生活に破れ、アルコール中毒となり、ベルサイユの病院で精神療養を受けている男アラン(演:モーリス・ロネ)。
彼は7月23日に自殺をしようと決めていた。今の彼にとって、人生は何もない空っぽの入れ物だ。
自殺するまでの48時間、彼はかつて青年時代を過ごしたパリへ赴き、街を歩く。そして、昔の友人たちを訪ねてゆく……



モーリス・ロネと言えば、『死刑台のエレベーター』で主人公ジャンヌ・モローの為に殺人を犯し、ふとしたミスでエレベーターに閉じ込められてしまう不倫相手を演じたり、『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンによりなりすまし殺人の被害者となってしまった金持ち息子の役などが有名な、ここに書いただけでも「受難の役が多いなぁ」という印象を抱いてしまう役者です。
本作での全てを投げ出しているような虚ろな眼差しは、凄く説得力があります。


病院はかつて貴族が住んでいたであろう館で、立派な個室が与えられています。
アランの部屋にあるのは、かつて共に過ごした妻の写真たち、マリリン・モンローや何処かの少年が死んだ記事の切り抜き、フィッツジェラルドの本、こけし、そして拳銃。
彼は常に死に囲まれており、先生が部屋を訪ねて「人生はいいものだよ」と言っても、上の空。


そんな彼が自殺を決意し、最後に友人たちを訪ねるわけですが、人生に落胆し、過去にすがる事でしか生きられないアランとは違い、
友人たちは結婚したり、新たなグループを作ったり、政治活動にのめり込んでいたりと、新たな生活を送っています。
アランは、そんな彼らの姿に愕然とし、ますます自分だけの孤独と言う名の硬い殻の中に入り込んでゆきます。
結婚した友人に対しては、彼が送っている「平凡な生活」に嫌気が差す。
麻薬という道具で日々を怠惰に、しかし希望だけは持って生きている仲間に対しては、その精神を理解する事すら拒む。
政治活動をしている友人たちの中に入って会話をしても、心は満たされない。
雨に降られながら訪れた友人の晩餐会では、自分が会話のネタにされて鬱々としてしまう。かつてアランが好きだった女性が優しく
接しても、もうアランにはその優しさは届かないのです。


終盤、彼は話し相手から「君は人を愛しているのか?」と問われ、
「僕は愛されたい。僕が愛するように」と答えます。
エゴだよそれは! と某ロボットアニメの主人公なら言いそうです。と言うか、僕も言いたい。
しかし、それが彼の考える愛であり、人生の理想なのです。
すごくワガママだなぁとも思うのですが、そんな気持ち、誰にだって少しはあるのではないでしょうか。僕にだってあります。
周りの人たちが自分の思うように接してくれなくて、自分以外の世界に対して常に怒り、絶望し、生きるのヤダナーと思う時。
そんな時、ある人は音楽を聴いたり、身体を動かしたりしてストレスを発散させるかもしれません。
または、その怒りのエネルギーで何かを創り出すかもしれません。
犯罪に走るかもしれません。
これがエヴ○ンゲリ○ンの主人公だと、「みんな死んじゃえ」となってしまう。
閉じこもり続けて、最後は「自分」を世界に突きつけようとするんですね。

アランは自殺という形で、世界に対し「自分」を刻み込もうとするのです。
それはあまりに哀しい事です。
自殺する事で世界に楔を打ち込んだと自殺する側(アラン)は思っていても、いずれ時が経ち、皆から忘れ去られてゆくのが、世の常なのですから。



中盤、アランはカフェの椅子から、道行く人々を眺めます。
楽しげに歩いてゆく人。考え事をしているような人。恋人たち。様々な人が、アランの目の前を通り過ぎていきます。そんな彼らの姿も、彼には虚しく映ります。何の感慨も、与えてくれません。
このシーン中、サティの『グノシエンヌ』が流れています。
北野武の監督デビュー作、『その男、凶暴につき』でも印象的な使われ方をした曲ですが、ここでは、アランの抱える虚無感を雄弁に物語っています。
サティの曲の中で特に有名な『ジムノペディ』『グノシエンヌ』が映画の節々で実に効果的に使われているので、そこも要チェックポイントですよ。



『鬼火』というこの映画は、暗く、寂しく、静かな映画です。
しかし、何かの折に観返してほしい、観返したい映画の一つです。
最初観た時はアランの心理について行けないと感じられても、次に観た時はまた違う風に見えてくるかもしれません。


イラスト:城間典子

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