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2024年8月30日金曜日

第34回 ここ最近観た映画たちを一気にレビュー!の巻。

 こんにちは!
台風10号のため、図らずも5連休を頂戴する事になった岩佐です!
連休初日の木曜日は、ダラダラ過ごす事からスタート。
このままではいかんと発破をかけて、ブログ書きに臨んでいる次第。

前回はスヌーピーと押切蓮介さんという僕の推しについて書いたのですが、元々このブログは映画の紹介ブログじゃないか!
このままではいかんと(2回目)、今回は手短ながら最近観て印象に残った映画たちのレビューをしちゃおうと思います!


『夜明けのすべて』(2024年 監督:三宅唱 主演:上白石萌音 / 松村北斗)
2024年に入って、最初に好きになった映画です。
人には言いづらい悩みを持つ2人の男女が、慣れ合うでもなく恋愛に発展するでもなく、互いの事を思いやって支えていく。そんな物語です。
主演の二人は既にメジャーな存在ながら、世俗に疎い僕は本作で二人の良さを発見しました。気張り過ぎない存在感が実に良き、です。
そして三宅監督の眼差し。まるで星空のように様々な光が明滅するこの世界で、大小様々な悩みを抱えて生きる人たちに寄り添うかのような目線で描写しています。
画面に映る風景も単に「街並み映してます」ではなく、人物たちが「一歩一歩を踏みしめて生きている場所」というこれ以上ない映し方であり、流石のストリート感覚だぁと思うのです。


『オールド・フォックス 11歳の選択』(2023年 監督:シャオ・ヤーチュアン)
バブル期の台湾。お金を貯めて、いつの日か理髪店を開業する事を夢見る親子、タイライとリャオジェ。慎ましく生きる二人をよそに、バブルの波が容赦なくやって来る……。
お人好しである父タイライと、腹黒いキツネと呼ばれる地主のシャ。二人の大人を軸に、どう生きていくのかを選択する少年リャオジェ。
少~し『ゴッドファーザー』のような、裏社会ものの匂いも漂う本作。ただ、悪役と呼べる人物はおらず、生き方の選び方が異なる人々を映しだし「それが正解なのかな」「あの時の選択で良かったのかな……」と観客に問うているような感じです。観ている観客自身にも置き換えられそうな、普遍的な話でもあると思いました。
雨に濡れる台湾の街並みがどこか懐かしく、そんなところも、本作が遠いようで近くに感じられる所以かもしれません。


『ルックバック』(2024年 監督:押山清高 主演:河合優実 / 吉田美月喜)
もともと原作コミックを妻の典子さん(以降、カミさんと記す)が持ってた&音楽がharuka nakamuraだった&何だか評判になってる、という理由で観に行った本作。
いやー、ビックラこいた&泣いた泣いた。一体なんなのか、この化け物映画は。
「漫画を描く」二人の少女が進んだ道のりを描いた本作は、クリエイターであろうとなかろうと響く物語ではないでしょうか。目の前には見えないけれど、目標、否、その人の背中を追い続けてあがく。努力、頑張る、というよりも、あがく。
人が生きる上で持っているであろう普遍的な感情を、圧倒的なアニメ力で描き切っており、原作の凄さをアニメの凄さでプラスに持って行った、原作と映画化の理想的な結婚と言っても過言ではないでしょう。
ちなみに、主役を演じた河合優実さん、吉田美月喜さんの事も、本作で知りました。凄い演技でした。正に役そのもの。彼女たちは、ドラマや映画に引っ張りだこなのですね。
嗚呼……疎いってのは、良いも悪いも一長一短。
(鑑賞後、藤本タツキを追いかけたい衝動に駆られて短編集や『チェンソーマン』を読破、アニメ版も鑑賞しました。いやー、この人のセンス、好きだわぁ)


『潜水艦コマンダンテ 誇り高き決断』(2023年 監督:エドアルド・デ・アンジェリス)
映画館でこんなに硬派な戦争映画を観たのは、久しぶりな気がします。しかも極力CGに頼らずセット中心で撮るというアナログっぷり!
さすがヨーロッパ最大級の映画撮影所、チネチッタを有しているイタリアです。
(何だかここ数年、ロケやCGではなくセットメインで撮っている映画を観ると、それだけで好感度あがるんですよ)
潜水艦バトルよりも乗員たちのドラマに主軸を置いており、屈指の名場面はフライドポテト。さっすが、食の国イタリアは違うねぇ!
骨太な映画をお探しの方、これは必見ですよ!



4本一気に紹介してみました。どうでしょう、何か気になった作品、ありましたか?
『マッドマックス フュリオサ』
『越後奥三面 ~山に行かされた日々~』
『お母さんが一緒』
『クレオの夏休み』
『風が吹くとき』
『ホールドオーバーズ 置いてけぼりのホリデイ』
『THE FIRST SLAM DUNK』(以下、ファースラ)
『墓泥棒と失われた女神』
などなど、他にも素晴らしい映画たちを観ているものの、文章量がドエライ事になりそうなので諦めます。
ファースラがすんばらしくて、現在原作コミックをレンタルして読んでます。
大昔に読んだ事あったけど、いやー、改めて面白い漫画ですね。魅せ方が上手すぎる。アニメ版もこの流れで観ちゃうか……?


また次回、こんな感じで紹介記事を書けたらと思います。
……推しの記事もね!

2018年10月29日月曜日

第13回 『1999年の夏休み』を忘れない。

{はじめに}
今まで僕は再録記事の事もあり、文章の書き方を「である調」で書いていたのですが、これからは再録記事はなるだけそのまま、
あらすじのみを「~だ調」とし、基本的には「ですます調」で書いていこうと思います。
突然変えたくなったというワケではなくて、以前から「大した事も書いてないのにである調で書くのは、何だか論文を書いてるみたいで気取ってるなぁ」などと思っていたのです。
僕自身、映画の紹介やエッセイなどですます調の方が、すんなりと文章の中へ入っていけるのです。
肩肘張って「~なのだ、か。フムフム」となるより、気軽に読んで頂きたい。そんな思いから、文体の変更をする事となりました。
そんな新スタイルでお送りする「怒涛の4連発投稿」第2弾は……


お金も無いくせに、同じ映画を2回観に行ったのです。
まさか自分も、連続で観に行く事になるとは、観る前は考えもしませんでしたが、1回目の鑑賞の際にすっかりその物語、世界観にハマり込んでしまいました。
そして、こうも思いました。
「この映画は、これからもずっと自分にとって大切な映画になるのだ」と。
今年もすでに10月、様々な映画たちを映画館や自宅で観ましたが、ここまで思わせてくれたのはジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』(1941)と、フレディ・M・ムーラーの『山の焚火』(1985)くらいでしょうか。
「もう一度、今度は1番前の席に座って、彼らの姿を観ておきたい」(初見の時は、前から2番目の席で、前の座席の方の頭が時おり邪魔になってしまったのです)と、観終わった時に直ぐ決めました。
その映画は1988年に作られた、『1999年の夏休み』という邦画です。
監督は、後に平成ガメラシリーズで日本映画史に名を残すこととなる、金子修介さん。
初めて自らの企画で作られた映画なのだそうです。


物語は1999年、ある全寮制の学院が舞台。山と緑に囲まれたこの場所で、少年たちは共同生活をしていた。
ある夜、悠(演:宮島依里)は崖から湖に身を投げてしまう。
そんな事件が起き、学院は夏休みを迎え、帰るあてのない少年たち3人が残った。
以前から悠が自分のことを想っていたにも関わらず、それを拒んでいたことで自責の念に駆られている少年、和彦(演;大寶智子)。
そんな和彦に深い思いやりで接する、リーダー格の直人(演:中野みゆき)。
和彦の悠に対する想いに強い嫉妬のようなものを抱いている、下級生の則夫(演:水原里絵)。
3人で過ごす夏休みが始まったかと思いきや、悠にそっくりの転入生、薫(演:宮島依里)が現れ、3人は動揺する……



この映画には、原作と言うか原案として、少女漫画家 萩尾望都の『トーマの心臓』があるのですが、クレジット上にはその名前は載りません。原作を読んでみると、今作は『トーマの心臓』を下敷きとした、一種の翻案なのです。
よく映画の宣伝文句で「5人だけで展開される、衝撃のサスペンス!」とか「3人の世界が……」といった、まるでその人数だけが映画に登場するかのような言い回しをしているものが多いですが、往々にしてそんな事はなく、モブなんかがワチャワチャいるもの。
しかしこの映画、本当に4人しか画面に出てこないのです(正確には、ナレーターの方もいて、その人もきちんとクレジットあり)。
脚本が劇作家でもある岸田理生ということもあってか、けっこう演劇のような作りです。
あらすじ部分を読まれて「んっ!?」と思われたかもしれませんが、そう、本作では10代の少年たちの役を10代の少女たちが演じています。
特に、則夫役を演じた水原里絵は本作がスクリーンデビュー作であり、その後、深津絵里という名前で有名になる女優なのです……(えーっ!)
初見時は一瞬「え、どこだ?」となったのですが、力強い目を見て分かりました。分かった上で、ちゃんと男の子っぽいのです。
ぱっと見、石井隆監督の『GONIN』(1995)に出演した時の本木雅弘に似てるんですよ。
まぁ、両方とも刈り上げ頭で目が大きいために、そう思うのでしょうが。
悠と薫の2役を演じた宮島さんも、遠くから見ると「どこかのお金持ちのおぼっちゃん」に見えて仕方ないし、和彦役の大寶さんもクールな感じの雰囲気をまとっており、「これは女の子人気を独占だな!」と思わせてくれます。
(事実、このblogで挿絵を担当している城間さんは和彦が良いんだそうで)
ただ一人、直人役の中野さんは男の子には見えにくい気がするのですが、役どころを考えると、それも有りな気がしてきます。
「女性が男性の役をする」なんて、舞台ではともかく映画だとコスプレに陥ってしまうのが多々あるワケですが、この作品は題材が題材なだけに奇跡的に上手くいっています。
彼女たちが彼らを演じるからこそ生まれる、キャラクター、及び世界観の純度の高さとか、禁欲的なエロチシズムとか……
このあたりの的確なキャスティングと演出の仕方は、さすが金子監督。


薫が現れることによって、悠の事を思い出さざるを得なくなった3人と、薫の謎、愛が物語の主軸ではありますが、僕がこの映画をここまで愛してしまったのは、この映画の中に流れる「時間」の捉え方に、ひどく心打たれたためでしょう。
この映画は愛の映画です。
しかしそれだけではなく、スクリーンを見ている我々観客がもう戻ることの出来ない「かつて誰にでもあった時間」を思い起こさせてくれます。
僕は小~高校までの友人たちを、友人として愛しています。特に中学時代の友人たちでしょうか。
僕は大分県の田舎で育ったため、小学校の友だちはそのまま中学校の友だちでした。
見慣れた友人たちと、中学校という事でそれまでとは違う校区からも数人やって来て、中学時代を過ごしました。
中学時代が、いちばん物を吸収し、様々な事に悩んでいたように思います。
時に友人、時に敵となった皆。そんな皆と喋り、学び、遊んだ日々。
そんな平穏と激動が混ぜこぜになってやって来ていた毎日を、僕は思い出していました。
特に僕は、将来の深津絵里こと則夫に自分を重ねて観ていたようです。
彼は最年少であることから、他の3人について行こうとしたり、生意気にも口を挟んでみたり、月日の流れを考えて焦ってみたりします。
終盤が始まる頃、4人が花火で遊ぶシーンがあります。このシーンはとても美しく、同時に儚く、今思い出しても胸に来るものがある本作のハイライトとも言える名場面ですが、ここで則夫は突如として独りになります。花火で戯れる3人を目にしながら、これから起こる月日の流れがもたらす別れを感じてしまうのです。
どこか語り部のような役割を持っていた、主軸から外れたように見えていた則夫が、ここに来て
「この作品が持っていた時間」を体現していたんだぁ……となり、観てるこちらは「ううっ、則夫ぉ……」となってしまう始末。
(気持ち悪っ! などと思わぬこと!)


書き出せばキリがない映画です。何処を観てほしいか、と聞かれると「全て!」としか言えません。
キャスト、脚本、世界観、美術、音楽、演出…… そう言えばこの映画、則夫と悠を除いて、
少年たちの声を3人の声優さんがあてています。
薫の声は、今や日本一知られている名探偵、コナン君でお馴染みの高山みなみ。
一声聞いただけで分かってしまうくらい特徴的な声の高山さんですが、この映画の時はまだデビュー1年目。
「薫は高山みなみ」と何度言われても分からないくらいの、(今とは違う)少年声をやっています。
和彦の声は、『AKIRA』(1988)の鉄雄や、TVアニメ『幽☆遊☆白書』(1992~'95)の浦飯幽助が有名な佐々木望さん。
この方は、ある時期を境に声が文字通りガラッと変わった声優さんですが、この頃はバリバリの少年声。しかも、いつもの高い調子ではなく低めのトーンで喋るため、最初は「どれが佐々木さんだ?」と分かりませんでした。
しかし、中盤で3人が行方不明になった則夫を探すシーンで和彦が「則夫何処だ~っ!」と叫ぶところで「あ、これは佐々木さんだな」と思いました(笑)
この人は叫び声が特徴的なのですね。
直人の声を充てた村山博美さんは…… 失礼ながら存じ上げておりませんでした。
リーダー的存在である直人のキリっとした雰囲気を、実に見事にあてておりました。
そして地声で悠を演じた宮島依里さんは現在声優として活躍されており、調べてみるとあんな映画やこんな映画の吹き替えを担当しており、「えっ、『500(日)のサマー』のサマー声やっとんの!?」となりました。

そして何と言っても、この映画を彩る要素で欠かせないのは音楽。
中村由利子さんが演奏するピアノの美しいこと!
本当はこの映画用の音楽ではなく、中村さんの1stアルバム『風の鏡』(1987)を金子監督が「本作にピッタリだ!」と気に入って使ったのですが、見事に作品世界にマッチ。
リマスター版のBlu-ray発売が待たれる今、何度もこの映画を思い出したい僕は、思わず『風の鏡』
をAmazonで買いましたよ。そして、ほぼ毎日ヘビロテで聞いております。ええ、幸せです。


嗚呼、キリがないと書きつつ、またつらつらと書いてしまいました。それだけオススメの映画なのです。
だがしかし! この度のリマスター版上映は終わってしまい、かつて発売されていたDVDも今や廃盤状態。
これから必ず発売してくれるであろう、リマスター版Blu-ray、DVDを共に待とうではありませんか!
そして、是非とも観ていただきたい。きっと、あなたの大切な映画になることと思います。


イラスト:城間典子

第12回 『最前線物語』という名の、もう1つの『この世界の片隅に』。


{はじめに}
この文章は、2017年3月15日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第14回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。
皆さま、ご無沙汰しております。僕は元気です。
なんと、以前の投稿から約4ヶ月も経っていました…… 投稿されるのを楽しみに待っていたという方、お待たせしてすみませんでした。
苦しい言い訳を重ねるのは簡単な事ですが、ここではそんな事は止めにして、ひたすら投稿されなかった分の記事を読んでもらいたいと思っております。
愛想を尽かしてさった方々にも、いずれまた見てもらえるような素敵なblogを書いておこうと思うのです。
そんなワケで今回は、「岩佐悠毅のゴメンナサイ! 怒涛の4連発投稿!」と題して、
夏らしい2本、秋に似合う2本の計4本を連続で投稿します。
つまり1本目は夏らしい作品の紹介なのですが…… これは再録記事です(オイッ!)。


去年は、ノーランの『ダンケルク』やメルギブの『ハクソー・リッジ』といった力作戦争映画が公開された年です。
僕は記事(*以前taomoiya雑文集で、この記事を投稿した時です)の中で『この世界の片隅に』を観ながら、
『最前線物語』の事を思い出していたと書いたのですが、『ダンケルク』を観た時も思い出してしまったのです。
あの映画は「兵士たちの行動のみ」に重点を置いた、今時珍しい戦争映画でした。
あえて今までのような複雑な語りを止め(とは言え、最初のうちは誰が誰で何処でと混乱しかねないですが)、行動のみで語るシンプル極まりない映画になっていて、そこがずっとノーランを苦手としていた僕は「良いな」と思えたのです。
しかし! 『最前線物語』は「行動」だけでなく、「ドラマ」も上手く絡み合って
「兵士たちの日常」を見事に描いています。
何だか、色々比較できて面白いものですね。では、どうぞ。



『この世界の片隅に』が怒涛の勢いだ。映画雑誌で軒並み1位を獲得し、日本アカデミー賞も獲得。
片渕須直監督は先日、上映のためにメキシコに行ってしまった。
(追記:そして今度は長尺版である『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開されますね!)
「片隅」どころか、全世界に羽ばたいている『この世界の片隅に』である。
なぜ今回、こんな事から書き出し、思いっきり『この世界~』人気にあやかったかのようなタイトルにしたのかには、勿論理由がある。
あやかっているワケでもないぞ。

『この世界~』公開初日、僕はスクリーンを見つめながら1つの映画を思い出していた。
その映画とは、1980年のアメリカ映画『最前線物語』。
監督は『拾った女』(1953)『殺人地帯USA』(1961)『ショック集団』(1963)『裸のキッス』(1964)
など数々のB級映画を監督してきたサミュエル・フラー。
タイトルがいかにもキワモノ臭い作品が多いが、実際に観てみると社会的テーマを上手く作品のなかに溶け込ませている。
彼は、映画監督になる前はジャーナリストであった。
彼はどの映画においても単に刺激や快感を与えるだけの映画にせず、世界に、とりわけアメリカに対する警鐘を鳴らしていた。
『最前線物語』は、そんな彼の集大成のような映画だ。

第一次大戦を生き延びた、1人の老軍曹(演:リー・マーヴィン)。
彼は第二次世界大戦では「ビッグ・レッド・ワン」=アメリカ第1歩兵師団の分隊長として従軍し、
4人の若い兵士たちと様々な戦場を巡る事となる……

というのが大まかな筋で、この映画において筋運びは大して重要ではない。
この映画は、様々な場所で戦闘を行いつつも何故か死なない軍曹と4人の兵士たちが主人公という、ちょっと不思議な映画なのだ。
多くある戦争映画は、何かしらの主人公たる要素(実際の人物を基にしていたり、ヒロイズム溢れるキャラクターだったり)
があるものだが、この『最前線物語』においてはそんな通常の戦争映画に出てくるような人物たちは皆無に等しい。
それどころか、4人の若者を率いる軍曹は名前すら無い! 非常に匿名性を帯びた存在だ。
北アフリカ上陸作戦、ロンメル戦車軍団との激戦、ノルマンディー上陸作戦(Dデイ)、ベルギーでの奇襲作戦……
この映画で5人は数多くの戦場に赴き、生き残る。
5人だけではままならんという事で、主人公たちの分隊に配属される若い兵士たちが何度か登場するのだが、
彼らはあっけなく死んでいく。
死に際のドラマなんて勿論描写されない。主人公たちの歩む道には、敵味方関係なく多くの屍が転がっている。
かと思えば、あるフランス人農婦が産気づく現場に出くわし、赤ん坊の出産に立ち会う。(コンドームをゴム手袋代わりに使う!)
この映画では、生と死がまさに等しく描かれている。死に関する描写が圧倒的に多いのだが、
それは兵士たちにとって日常的な出来事として描かれる。
『この世界~』の中で、空襲の頻度があまりにも多いため、すずさんたちが辟易するシーンがある。
そこで描かれるのはすずさんたちの日常だが、他の場所では、その空襲で亡くなっている人もいる。
その「主人公の日常と並行して描かれる誰かの死」が、この『最前線物語』と非常によく似ているのだ。
かたや一兵士たちの日常。かたや一市民の日常。
どちらも「戦争」という大きな「流れ」を俯瞰ではなく、個人の視点から見つめている点も特徴的であり、かつ似ている。


ラストにかぶさるナレーションに、こんな言葉がある。
「この戦記は生き残った連中に捧げよう。やっと助かったんだから」
戦争における真の栄光というものは、
重大な任務を達成する事でも、何十人殺した事でもなく、はたまた見事に特攻をやり遂げる事でもない。
生き残る事だ。
戦争が終わった後も、すぐ隣で死んだ戦友たちの分まで精一杯生きる事だ。
サミュエル・フラーは自身の従軍経験を活かし、それを成し遂げた。声高ではない、だが、非常に力強い映画を作り上げた。
この映画はフラーから僕ら未来の世代に対する、遺言のような作品だ。
『この世界の片隅に』を観て感銘を受けた方々は、本作もご覧になる事を強くオススメする。


イラスト:城間典子
(最初に載せたイラストは雑文集掲載時のもの。
次に載せたものが、今回の記事のために描かれたもの。
両方とも、同じ軍曹を描いているのですよ!)

2017年11月12日日曜日

第5回 『SELF AND OTHERS』には、今日も風が吹いている。

{はじめに}
この文章は、2016年2月29日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第3回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。
前回、山形国際ドキュメンタリー映画祭について、と言うよりは佐藤真監督について書いたため、以前に書いていた『SELF AND OTHERS』の感想を載せる事にしました。
前回にも書いた事なのですが、この作品は特に好きなドキュメンタリー映画でして、好き好き具合が爆発しているかもしれません。悪しからず。



もう3月。春がそこまで来ている。 僕は毎年、春を風で感じる。
冬の冷たい風から温かな風に変わって、思わず顔も心も綻んでしまう。
春に一番重要なのは、生命の喜びを感じさせてくれる風だ。
同じように、映画にとっても風は重要な要素だ。
風を上手く描写している映画はそれだけで良い映画だと分かるし、反対に風をおろそかに描いているような映画は駄作だと断言出来る。
(例えば、宮崎駿の映画やアンドレイ・タルコフスキーの映画、エミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』などは良い風が吹くお手本のような映画たちだ)


今回紹介するドキュメンタリー映画『SELF AND OTHERS』(2000)にも、素晴らしい風が吹く。
この映画の監督は佐藤真。彼はドキュメンタリー作家で、デビュー作の『阿賀に生きる』(1992)が大反響を呼んだ人物である。この『SELF~』は、『阿賀に生きる』、『まひるのほし』(1998)に続く、3作目の映画(もっとも、この映画は僅か53分という短編映画だが)だ。
この映画は、1983年に36歳という若さで亡くなった、写真家の牛腸茂雄(ごちょう しげお)についての映画である。
しかし、牛腸茂雄がどんな人間でどんな生き方をしてきたのかを暴くドキュメンタリー映画ではない(人物紹介的なものは、冒頭でちょこっとのみ)。

では何を描いているのか。一言でいえば、牛腸が生前見ていたであろう物、風景をカメラが捉えていくという妙な映画なのだ。
かつて牛腸が被写体たちを撮影した(牛腸の撮る写真は、そのほとんどがポートレート写真である)場所にカメラが赴きその場所を映していると、さもフラッシュバックしたかのように以前そこで牛腸が撮影した写真が画面に映りこんでくる。
第三者であるはずのカメラが、映画そのものが回想をしているのだ!
これは何とも不思議な作りだ。

そして(今や超のつく有名俳優になった)西島秀俊による、牛腸が実の姉に送った手紙の朗読がそれらの風景に被さる。
手紙を読んでいるだけにもかかわらず、彼の日記を聞いているような錯覚も覚え、西島の声が牛腸本人の声のようにも聞こえてくる。
他にも、牛腸がまだアマチュアの頃に友人たちと撮影した短編映画『街』と『THE GRASS VISITOR』が流れたりする。
観ている側は、過去の風景と現在の風景が混じりあい、どんどん混乱していく。
ここで興味深いのは、そのような作りをしているのに映画そのものはノスタルジーに浸りきっていないという点だ。
そこには、もうすでに死者となった牛腸の視点の再現(佐藤監督たちは、牛腸の見てきたであろう風景を映すことは出来るが、それは牛腸本人の目線そのままではない)であるからという作り手側の第三者的な、俯瞰した目線があるからではないだろうか。

終盤、突然か細い声が画面に割り込んでくる。
「もしもし、聞こえますか。これらの声はどのようにきこえているんだろうか」と。
これは、他ならぬ牛腸茂雄の肉声なのだ。
牛腸は幼少の頃から生死にかかわる重い病に患わされており、病弱な体であった。それが声にも表れている。蝋燭の火のように、フッと息を吹けば消えてしまいそうな声だ。
我々観客は、それまで西島による朗読の声で牛腸茂雄という人をイメージしているため、ここにきての本人登場は「おおっ、本物きた~!」というよりは「え、これが牛腸茂雄なの…?」という戸惑いの方が強い。
たった1つのショットや演技でその映画が決定的なものになることがよくある。
この『SELF~』においては、 それは間違いなく牛腸本人の声である。
今にも息絶えそうな声であるが、他のものを一切寄せつけないほどの声、強度のある声、まさに「生きている」としか言いようのない声。
この声を核として、佐藤真らはこの映画を作っ たに違いない。


冒頭、青草の茂る広い庭に一本の大きな木が映っている。そしてそこに風が吹き、木が揺れる。
僕が『SELF~』を思い出すとき、この木と風、牛腸の声を思い出す。あまりにも力強く印象的な木と、風。
この風景は、映画の最後にも再び登場する。映画そのものが旅をしてきて、一周回ってきた。
我々は知らず知らずのうちに、風に誘われて映画内の空間(それ即ち、牛腸空間なり)を旅し、
そしてまた最初にいた場所に戻ってくるのである。
この映画は牛腸茂雄についての映画であるが、同時に「記憶を辿るロードムービー」でもあるのだ。


イラスト:城間典子