2018年10月30日火曜日

第15回 『マイキー&ニッキー』の儚さ、それは夜明けの匂い。

こっ恥ずかしいタイトルで始まった「怒涛の4連発投稿」第4弾、つまり最後の投稿です。
いや~、恥ずかしいタイトルなんて言っときながら
「フフフ、小説のタイトルとかにありそうやな……」とも思ってしまっているのが、輪をかけて恥ずかしい限り。
まぁ、僕なりの茶目っ気という事でひとつ。

思えば今回の連続投稿、『1999年の夏休み』『鬼火』そして『マイキー&ニッキー』と、どれも友情がテーマに絡んでいるのですよ。
偶然にしては出来過ぎている…… かと言って、狙ったワケでもないんですよ。言い訳がましいなぁ、我ながら。
秋と言えばハードボイルドな季節なので、偏愛しているこの映画を今回紹介しようと思い立ったワケです。



『マイキー&ニッキー』(1976 監督・脚本:エレイン・メイ)


まだ大学1回生だった2011年、今にして思えば、一番映画を観ていた頃だったかもしれません。←ホントか?
京都には数多くのレンタルビデオ店があり、ビデオ1やビデオ・イン・アメリカ(白梅町店も、下鴨店ももう無い……)などのおかげで、
ゴダールやタルコフスキー、アキ・カウリスマキ、レオス・カラックス、TSUTAYAでは並ばないような数多くのマニアックな邦画たちなどを一気に観ていました。
そんな中に、ジョン・カサヴェテスの映画もありました。
それまでカサヴェテスの名前を意識したことはなく、彼の事を知ってから
「ああ、『ローズマリーの赤ちゃん』の旦那さんだった人か! 『特攻大作戦』のやたら反抗的だったヤツか!」
と分かるようになったくらいでして。
そんな、「俳優カサヴェテス」が撮った映画ってどんなものだろうと思い『こわれゆく女』『オープニング・ナイト』を観て、どえらい衝撃を受けました。

こんなにパワフルで、ガツンと来る映画を撮っていた人やったなんて!
しかも調べてみると、俳優としても評価されているカサヴェテスですが、「インディペンデント映画界の父」なんて言われていたと書かれているではありませんか!
そんなに凄い人やったんか…… 唖然茫然。これは他のも観なくては!

彼の映画を追いかけていたそんな頃に、京都みなみ会館で『マイキー&ニッキー』の予告編を観たのでした。
主演はジョン・カサヴェテスと、彼の親友でありカサヴェテス組の常連であり、『刑事コロンボ』でお馴染みのピーター・フォーク。
予告編を観る限り、二人が夜の街を駆けまわるという筋書きらしい。

そして、何かよく分からんけど格好いい!
と言うか、二人が主演なら観ないワケにはイカンやろ! といった具合に、楽しみに待っていました。
さて、どんな映画だったかと言うと……


ニッキー(演:ジョン・カサヴェテス)は組織に切り捨てられ、追われる身となっていた。
マイキー(演:ピーター・フォーク)はニッキーと同じ組織に属し、彼を売るようにに命じられていた。
命令を守るのか、親友を救うのか、マイキーは悩んでいた。
彼らは、夜の街を駆け始めた……


一言で言えば、「中年ふたりが逃げながらも、くっちゃべり続ける映画」です。
身も蓋もない紹介の仕方ですね。
いわゆる「ギャング映画」のジャンルに分けられる映画なのでしょうが、そんなジャンル分けは無意味でしょう。
僕にとっては、これは「友情についての映画」であり、「ジョン・カサヴェテスとピーター・フォークという二人の名優の競演を味わい尽くす映画」だったりします。
(だからと言って、ファン受けするだけの映画かと言われたら「違うよ」と言いたい)



ニッキーが身を隠しているホテルからマイキーを呼びつけるシーンから始まるのですが、しょっぱなからニッキーはただ者ではなさそうな雰囲気、言動を観客に見せつけてきます。
自分から呼んでおいて、マイキーをドアの前でひたすら待たせたり、ようやく開けたかと思えば手にしている銃を向けるなど、彼の混乱っぷりにヒヤヒヤさせられます。
生きるか死ぬかの瀬戸際だから、こんなに疑り深かったりしてるのかな、と考えるものの、展開が進むにつれて、どうもニッキーは昔からマイキーの頭痛の種のようだと分かってきます。
そして、そんな大変な友人を持っていても大切な友人としてずっと一緒にいる、マイキーの優しさも。


狙撃されるのは嫌だと言って上着の交換をしたり、酒場に行けばカップルに絡み、映画館に行こうと言い出し、バスの中で急に「お袋の墓参りだ!」と決めて本当に赴いたり……
狙われているとは思えないくらいハチャメチャに動き回るニッキー、それに渋々ながら同行している(同時に、心の中では葛藤を繰り返す)マイキー。
息苦しいホテルの部屋を出たニッキーは、まるで水を得た魚。何とも楽しそうではあ~りませんか。
しかし、追手は確実に存在します。
刺客は太っちょの殺し屋(演:ネッド・ビーティ)です。
人懐っこそうな見た目とは裏腹に、デキる奴オーラがプンプン。ニッキーには、思い入れも無いですし。
とは言え、舞台は夜の都会のド真ん中。あと一歩というところで逃したり、なかなかチャンスに恵まれませんが。


バスの中、ニッキーが煙草を吸っています。オバチャンに注意されても知らん顔。アッカンベーてな具合。
それまで何とかニッキーをなだめたりリードしようとしていたマイキーが、ここではニッキーを「しょうがないなぁ」といった顔で見つめています。
きっと、ずっとこんな感じで彼を見てきたのでしょう。
ニッキーの母親が眠っている墓場で盛り上がる、子供の頃の話。
ヤクザな世界に生きる「悪ガキ精神を持ったままの大人たち」を描いた『エグザイル/絆』(2006)や『狼は天使の匂い』(1972)のように、二人っきりだと昔の姿に戻れるのです。
社会や組織のしがらみなどを気にせずにはしゃぎ回った、かつての自分たちに。



でも、そんな時間はあっという間。ニッキーが愛人の家を訪ねる辺りから、雲行きが怪しくなっていきます。
自分と愛人のイチャイチャぶりを見せつけたり(愛人は「マイキーがいるじゃないの……」と言うのですが、ニッキーはお構いなし)してくるので、マイキーはだんだんウンザリしてきます。
愛人宅を出た後、ふとした口論からニッキーは、マイキーの大事な腕時計を壊してしまいます。それは、死んだ父親の形見でした。
ニッキーは相変わらず「修理すりゃ大丈夫だろ」みたいな軽いノリです。マイキーはそうはいきません。
溜まっていたものが、ついに弾けてしまいました。
「もう知らん!」
マイキーは、ニッキーを置いて去ってしまいます。
果たして、ニッキーはどうなるのか…… それは観ていただきたいので秘密。



「友情」というヤツが持っている空気感と言いましょうか、その微妙なラインを、この映画は実に見事に描いています。
正反対な性格の彼らが、何故こうもずっと付き合っていられるのか。
彼らが過ごす、グダグダとした時間のあるある感。
長い友情にヒビが入る瞬間のあっけなさ。
ヒビが入ってしまってからの彼らの姿は、銃撃戦で誰かが死んだりするよりもよっぽど悲しく、やるせない。
僕らは、確かにこの時間たちを知っています。



たった一晩の物語です。
カサヴェテスもフォークも、既にこの世にはいません。
しかし、僕らがこれから何度も迎えるかもしれない一晩を刻んだ、永遠に輝き続ける映画です。



イラスト:城間典子

第14回 『鬼火』が消える頃に。


僕の誕生日は10月2日、つまり秋のど真ん中。それもあってか、秋が一番好きな季節です。
カラッとした空気感が実に過ごしやすいし、芸術の秋と言われるだけあって、読書にもってこいの季節だし。
しかし同時に、寂しさの募る季節、という思いもあります。
空気感がそう思わせるのでしょうか。そしてそれ故でしょうか、ピアノの音が恋しくなってきます。
今年は何故か、特にピアノの曲が聴きたくなったので、手元にあるピアノアルバムを引っ張り出しては聴くのですが、
どうもジャズのアルバムだと違うようです。
『1999年の夏休み』のおかげで聴くようになった、中村由利子さんのアルバムは…… 良いですねぇ、ピッタリきますねぇ!
要するに、どこか湿り気と言うか、感傷的な雰囲気のピアノの音を求めているようなのです。
そしてもう一人、エリック・サティ。

彼の作り出したピアノの曲たちは、今の僕に深く沁みてきます。
一聴しただけだと暗いようなイメージを持ってしまうサティ。
しかし何度も聴いていくうちにその儚い音の調べが、自分に寄り添ってくれているような優しさを感じる事が出来ます。
いつでもサティの音楽に浸るため、高橋悠治氏によるサティのCDを購入しちゃいました。


さて、そんな中でお送りする「怒涛の4連発投稿」第3弾は
そのサティの曲が全編に渡って流れるフランス映画『鬼火』(1963)をご紹介します。
監督は『死刑台のエレベーター』(1958)で鮮烈な長編映画監督デビューを飾った、ルイ・マルです。



ニューヨークでの結婚生活に破れ、アルコール中毒となり、ベルサイユの病院で精神療養を受けている男アラン(演:モーリス・ロネ)。
彼は7月23日に自殺をしようと決めていた。今の彼にとって、人生は何もない空っぽの入れ物だ。
自殺するまでの48時間、彼はかつて青年時代を過ごしたパリへ赴き、街を歩く。そして、昔の友人たちを訪ねてゆく……



モーリス・ロネと言えば、『死刑台のエレベーター』で主人公ジャンヌ・モローの為に殺人を犯し、ふとしたミスでエレベーターに閉じ込められてしまう不倫相手を演じたり、『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンによりなりすまし殺人の被害者となってしまった金持ち息子の役などが有名な、ここに書いただけでも「受難の役が多いなぁ」という印象を抱いてしまう役者です。
本作での全てを投げ出しているような虚ろな眼差しは、凄く説得力があります。


病院はかつて貴族が住んでいたであろう館で、立派な個室が与えられています。
アランの部屋にあるのは、かつて共に過ごした妻の写真たち、マリリン・モンローや何処かの少年が死んだ記事の切り抜き、フィッツジェラルドの本、こけし、そして拳銃。
彼は常に死に囲まれており、先生が部屋を訪ねて「人生はいいものだよ」と言っても、上の空。


そんな彼が自殺を決意し、最後に友人たちを訪ねるわけですが、人生に落胆し、過去にすがる事でしか生きられないアランとは違い、
友人たちは結婚したり、新たなグループを作ったり、政治活動にのめり込んでいたりと、新たな生活を送っています。
アランは、そんな彼らの姿に愕然とし、ますます自分だけの孤独と言う名の硬い殻の中に入り込んでゆきます。
結婚した友人に対しては、彼が送っている「平凡な生活」に嫌気が差す。
麻薬という道具で日々を怠惰に、しかし希望だけは持って生きている仲間に対しては、その精神を理解する事すら拒む。
政治活動をしている友人たちの中に入って会話をしても、心は満たされない。
雨に降られながら訪れた友人の晩餐会では、自分が会話のネタにされて鬱々としてしまう。かつてアランが好きだった女性が優しく
接しても、もうアランにはその優しさは届かないのです。


終盤、彼は話し相手から「君は人を愛しているのか?」と問われ、
「僕は愛されたい。僕が愛するように」と答えます。
エゴだよそれは! と某ロボットアニメの主人公なら言いそうです。と言うか、僕も言いたい。
しかし、それが彼の考える愛であり、人生の理想なのです。
すごくワガママだなぁとも思うのですが、そんな気持ち、誰にだって少しはあるのではないでしょうか。僕にだってあります。
周りの人たちが自分の思うように接してくれなくて、自分以外の世界に対して常に怒り、絶望し、生きるのヤダナーと思う時。
そんな時、ある人は音楽を聴いたり、身体を動かしたりしてストレスを発散させるかもしれません。
または、その怒りのエネルギーで何かを創り出すかもしれません。
犯罪に走るかもしれません。
これがエヴ○ンゲリ○ンの主人公だと、「みんな死んじゃえ」となってしまう。
閉じこもり続けて、最後は「自分」を世界に突きつけようとするんですね。

アランは自殺という形で、世界に対し「自分」を刻み込もうとするのです。
それはあまりに哀しい事です。
自殺する事で世界に楔を打ち込んだと自殺する側(アラン)は思っていても、いずれ時が経ち、皆から忘れ去られてゆくのが、世の常なのですから。



中盤、アランはカフェの椅子から、道行く人々を眺めます。
楽しげに歩いてゆく人。考え事をしているような人。恋人たち。様々な人が、アランの目の前を通り過ぎていきます。そんな彼らの姿も、彼には虚しく映ります。何の感慨も、与えてくれません。
このシーン中、サティの『グノシエンヌ』が流れています。
北野武の監督デビュー作、『その男、凶暴につき』でも印象的な使われ方をした曲ですが、ここでは、アランの抱える虚無感を雄弁に物語っています。
サティの曲の中で特に有名な『ジムノペディ』『グノシエンヌ』が映画の節々で実に効果的に使われているので、そこも要チェックポイントですよ。



『鬼火』というこの映画は、暗く、寂しく、静かな映画です。
しかし、何かの折に観返してほしい、観返したい映画の一つです。
最初観た時はアランの心理について行けないと感じられても、次に観た時はまた違う風に見えてくるかもしれません。


イラスト:城間典子

2018年10月29日月曜日

第13回 『1999年の夏休み』を忘れない。

{はじめに}
今まで僕は再録記事の事もあり、文章の書き方を「である調」で書いていたのですが、これからは再録記事はなるだけそのまま、
あらすじのみを「~だ調」とし、基本的には「ですます調」で書いていこうと思います。
突然変えたくなったというワケではなくて、以前から「大した事も書いてないのにである調で書くのは、何だか論文を書いてるみたいで気取ってるなぁ」などと思っていたのです。
僕自身、映画の紹介やエッセイなどですます調の方が、すんなりと文章の中へ入っていけるのです。
肩肘張って「~なのだ、か。フムフム」となるより、気軽に読んで頂きたい。そんな思いから、文体の変更をする事となりました。
そんな新スタイルでお送りする「怒涛の4連発投稿」第2弾は……


お金も無いくせに、同じ映画を2回観に行ったのです。
まさか自分も、連続で観に行く事になるとは、観る前は考えもしませんでしたが、1回目の鑑賞の際にすっかりその物語、世界観にハマり込んでしまいました。
そして、こうも思いました。
「この映画は、これからもずっと自分にとって大切な映画になるのだ」と。
今年もすでに10月、様々な映画たちを映画館や自宅で観ましたが、ここまで思わせてくれたのはジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』(1941)と、フレディ・M・ムーラーの『山の焚火』(1985)くらいでしょうか。
「もう一度、今度は1番前の席に座って、彼らの姿を観ておきたい」(初見の時は、前から2番目の席で、前の座席の方の頭が時おり邪魔になってしまったのです)と、観終わった時に直ぐ決めました。
その映画は1988年に作られた、『1999年の夏休み』という邦画です。
監督は、後に平成ガメラシリーズで日本映画史に名を残すこととなる、金子修介さん。
初めて自らの企画で作られた映画なのだそうです。


物語は1999年、ある全寮制の学院が舞台。山と緑に囲まれたこの場所で、少年たちは共同生活をしていた。
ある夜、悠(演:宮島依里)は崖から湖に身を投げてしまう。
そんな事件が起き、学院は夏休みを迎え、帰るあてのない少年たち3人が残った。
以前から悠が自分のことを想っていたにも関わらず、それを拒んでいたことで自責の念に駆られている少年、和彦(演;大寶智子)。
そんな和彦に深い思いやりで接する、リーダー格の直人(演:中野みゆき)。
和彦の悠に対する想いに強い嫉妬のようなものを抱いている、下級生の則夫(演:水原里絵)。
3人で過ごす夏休みが始まったかと思いきや、悠にそっくりの転入生、薫(演:宮島依里)が現れ、3人は動揺する……



この映画には、原作と言うか原案として、少女漫画家 萩尾望都の『トーマの心臓』があるのですが、クレジット上にはその名前は載りません。原作を読んでみると、今作は『トーマの心臓』を下敷きとした、一種の翻案なのです。
よく映画の宣伝文句で「5人だけで展開される、衝撃のサスペンス!」とか「3人の世界が……」といった、まるでその人数だけが映画に登場するかのような言い回しをしているものが多いですが、往々にしてそんな事はなく、モブなんかがワチャワチャいるもの。
しかしこの映画、本当に4人しか画面に出てこないのです(正確には、ナレーターの方もいて、その人もきちんとクレジットあり)。
脚本が劇作家でもある岸田理生ということもあってか、けっこう演劇のような作りです。
あらすじ部分を読まれて「んっ!?」と思われたかもしれませんが、そう、本作では10代の少年たちの役を10代の少女たちが演じています。
特に、則夫役を演じた水原里絵は本作がスクリーンデビュー作であり、その後、深津絵里という名前で有名になる女優なのです……(えーっ!)
初見時は一瞬「え、どこだ?」となったのですが、力強い目を見て分かりました。分かった上で、ちゃんと男の子っぽいのです。
ぱっと見、石井隆監督の『GONIN』(1995)に出演した時の本木雅弘に似てるんですよ。
まぁ、両方とも刈り上げ頭で目が大きいために、そう思うのでしょうが。
悠と薫の2役を演じた宮島さんも、遠くから見ると「どこかのお金持ちのおぼっちゃん」に見えて仕方ないし、和彦役の大寶さんもクールな感じの雰囲気をまとっており、「これは女の子人気を独占だな!」と思わせてくれます。
(事実、このblogで挿絵を担当している城間さんは和彦が良いんだそうで)
ただ一人、直人役の中野さんは男の子には見えにくい気がするのですが、役どころを考えると、それも有りな気がしてきます。
「女性が男性の役をする」なんて、舞台ではともかく映画だとコスプレに陥ってしまうのが多々あるワケですが、この作品は題材が題材なだけに奇跡的に上手くいっています。
彼女たちが彼らを演じるからこそ生まれる、キャラクター、及び世界観の純度の高さとか、禁欲的なエロチシズムとか……
このあたりの的確なキャスティングと演出の仕方は、さすが金子監督。


薫が現れることによって、悠の事を思い出さざるを得なくなった3人と、薫の謎、愛が物語の主軸ではありますが、僕がこの映画をここまで愛してしまったのは、この映画の中に流れる「時間」の捉え方に、ひどく心打たれたためでしょう。
この映画は愛の映画です。
しかしそれだけではなく、スクリーンを見ている我々観客がもう戻ることの出来ない「かつて誰にでもあった時間」を思い起こさせてくれます。
僕は小~高校までの友人たちを、友人として愛しています。特に中学時代の友人たちでしょうか。
僕は大分県の田舎で育ったため、小学校の友だちはそのまま中学校の友だちでした。
見慣れた友人たちと、中学校という事でそれまでとは違う校区からも数人やって来て、中学時代を過ごしました。
中学時代が、いちばん物を吸収し、様々な事に悩んでいたように思います。
時に友人、時に敵となった皆。そんな皆と喋り、学び、遊んだ日々。
そんな平穏と激動が混ぜこぜになってやって来ていた毎日を、僕は思い出していました。
特に僕は、将来の深津絵里こと則夫に自分を重ねて観ていたようです。
彼は最年少であることから、他の3人について行こうとしたり、生意気にも口を挟んでみたり、月日の流れを考えて焦ってみたりします。
終盤が始まる頃、4人が花火で遊ぶシーンがあります。このシーンはとても美しく、同時に儚く、今思い出しても胸に来るものがある本作のハイライトとも言える名場面ですが、ここで則夫は突如として独りになります。花火で戯れる3人を目にしながら、これから起こる月日の流れがもたらす別れを感じてしまうのです。
どこか語り部のような役割を持っていた、主軸から外れたように見えていた則夫が、ここに来て
「この作品が持っていた時間」を体現していたんだぁ……となり、観てるこちらは「ううっ、則夫ぉ……」となってしまう始末。
(気持ち悪っ! などと思わぬこと!)


書き出せばキリがない映画です。何処を観てほしいか、と聞かれると「全て!」としか言えません。
キャスト、脚本、世界観、美術、音楽、演出…… そう言えばこの映画、則夫と悠を除いて、
少年たちの声を3人の声優さんがあてています。
薫の声は、今や日本一知られている名探偵、コナン君でお馴染みの高山みなみ。
一声聞いただけで分かってしまうくらい特徴的な声の高山さんですが、この映画の時はまだデビュー1年目。
「薫は高山みなみ」と何度言われても分からないくらいの、(今とは違う)少年声をやっています。
和彦の声は、『AKIRA』(1988)の鉄雄や、TVアニメ『幽☆遊☆白書』(1992~'95)の浦飯幽助が有名な佐々木望さん。
この方は、ある時期を境に声が文字通りガラッと変わった声優さんですが、この頃はバリバリの少年声。しかも、いつもの高い調子ではなく低めのトーンで喋るため、最初は「どれが佐々木さんだ?」と分かりませんでした。
しかし、中盤で3人が行方不明になった則夫を探すシーンで和彦が「則夫何処だ~っ!」と叫ぶところで「あ、これは佐々木さんだな」と思いました(笑)
この人は叫び声が特徴的なのですね。
直人の声を充てた村山博美さんは…… 失礼ながら存じ上げておりませんでした。
リーダー的存在である直人のキリっとした雰囲気を、実に見事にあてておりました。
そして地声で悠を演じた宮島依里さんは現在声優として活躍されており、調べてみるとあんな映画やこんな映画の吹き替えを担当しており、「えっ、『500(日)のサマー』のサマー声やっとんの!?」となりました。

そして何と言っても、この映画を彩る要素で欠かせないのは音楽。
中村由利子さんが演奏するピアノの美しいこと!
本当はこの映画用の音楽ではなく、中村さんの1stアルバム『風の鏡』(1987)を金子監督が「本作にピッタリだ!」と気に入って使ったのですが、見事に作品世界にマッチ。
リマスター版のBlu-ray発売が待たれる今、何度もこの映画を思い出したい僕は、思わず『風の鏡』
をAmazonで買いましたよ。そして、ほぼ毎日ヘビロテで聞いております。ええ、幸せです。


嗚呼、キリがないと書きつつ、またつらつらと書いてしまいました。それだけオススメの映画なのです。
だがしかし! この度のリマスター版上映は終わってしまい、かつて発売されていたDVDも今や廃盤状態。
これから必ず発売してくれるであろう、リマスター版Blu-ray、DVDを共に待とうではありませんか!
そして、是非とも観ていただきたい。きっと、あなたの大切な映画になることと思います。


イラスト:城間典子

第12回 『最前線物語』という名の、もう1つの『この世界の片隅に』。


{はじめに}
この文章は、2017年3月15日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第14回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。
皆さま、ご無沙汰しております。僕は元気です。
なんと、以前の投稿から約4ヶ月も経っていました…… 投稿されるのを楽しみに待っていたという方、お待たせしてすみませんでした。
苦しい言い訳を重ねるのは簡単な事ですが、ここではそんな事は止めにして、ひたすら投稿されなかった分の記事を読んでもらいたいと思っております。
愛想を尽かしてさった方々にも、いずれまた見てもらえるような素敵なblogを書いておこうと思うのです。
そんなワケで今回は、「岩佐悠毅のゴメンナサイ! 怒涛の4連発投稿!」と題して、
夏らしい2本、秋に似合う2本の計4本を連続で投稿します。
つまり1本目は夏らしい作品の紹介なのですが…… これは再録記事です(オイッ!)。


去年は、ノーランの『ダンケルク』やメルギブの『ハクソー・リッジ』といった力作戦争映画が公開された年です。
僕は記事(*以前taomoiya雑文集で、この記事を投稿した時です)の中で『この世界の片隅に』を観ながら、
『最前線物語』の事を思い出していたと書いたのですが、『ダンケルク』を観た時も思い出してしまったのです。
あの映画は「兵士たちの行動のみ」に重点を置いた、今時珍しい戦争映画でした。
あえて今までのような複雑な語りを止め(とは言え、最初のうちは誰が誰で何処でと混乱しかねないですが)、行動のみで語るシンプル極まりない映画になっていて、そこがずっとノーランを苦手としていた僕は「良いな」と思えたのです。
しかし! 『最前線物語』は「行動」だけでなく、「ドラマ」も上手く絡み合って
「兵士たちの日常」を見事に描いています。
何だか、色々比較できて面白いものですね。では、どうぞ。



『この世界の片隅に』が怒涛の勢いだ。映画雑誌で軒並み1位を獲得し、日本アカデミー賞も獲得。
片渕須直監督は先日、上映のためにメキシコに行ってしまった。
(追記:そして今度は長尺版である『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開されますね!)
「片隅」どころか、全世界に羽ばたいている『この世界の片隅に』である。
なぜ今回、こんな事から書き出し、思いっきり『この世界~』人気にあやかったかのようなタイトルにしたのかには、勿論理由がある。
あやかっているワケでもないぞ。

『この世界~』公開初日、僕はスクリーンを見つめながら1つの映画を思い出していた。
その映画とは、1980年のアメリカ映画『最前線物語』。
監督は『拾った女』(1953)『殺人地帯USA』(1961)『ショック集団』(1963)『裸のキッス』(1964)
など数々のB級映画を監督してきたサミュエル・フラー。
タイトルがいかにもキワモノ臭い作品が多いが、実際に観てみると社会的テーマを上手く作品のなかに溶け込ませている。
彼は、映画監督になる前はジャーナリストであった。
彼はどの映画においても単に刺激や快感を与えるだけの映画にせず、世界に、とりわけアメリカに対する警鐘を鳴らしていた。
『最前線物語』は、そんな彼の集大成のような映画だ。

第一次大戦を生き延びた、1人の老軍曹(演:リー・マーヴィン)。
彼は第二次世界大戦では「ビッグ・レッド・ワン」=アメリカ第1歩兵師団の分隊長として従軍し、
4人の若い兵士たちと様々な戦場を巡る事となる……

というのが大まかな筋で、この映画において筋運びは大して重要ではない。
この映画は、様々な場所で戦闘を行いつつも何故か死なない軍曹と4人の兵士たちが主人公という、ちょっと不思議な映画なのだ。
多くある戦争映画は、何かしらの主人公たる要素(実際の人物を基にしていたり、ヒロイズム溢れるキャラクターだったり)
があるものだが、この『最前線物語』においてはそんな通常の戦争映画に出てくるような人物たちは皆無に等しい。
それどころか、4人の若者を率いる軍曹は名前すら無い! 非常に匿名性を帯びた存在だ。
北アフリカ上陸作戦、ロンメル戦車軍団との激戦、ノルマンディー上陸作戦(Dデイ)、ベルギーでの奇襲作戦……
この映画で5人は数多くの戦場に赴き、生き残る。
5人だけではままならんという事で、主人公たちの分隊に配属される若い兵士たちが何度か登場するのだが、
彼らはあっけなく死んでいく。
死に際のドラマなんて勿論描写されない。主人公たちの歩む道には、敵味方関係なく多くの屍が転がっている。
かと思えば、あるフランス人農婦が産気づく現場に出くわし、赤ん坊の出産に立ち会う。(コンドームをゴム手袋代わりに使う!)
この映画では、生と死がまさに等しく描かれている。死に関する描写が圧倒的に多いのだが、
それは兵士たちにとって日常的な出来事として描かれる。
『この世界~』の中で、空襲の頻度があまりにも多いため、すずさんたちが辟易するシーンがある。
そこで描かれるのはすずさんたちの日常だが、他の場所では、その空襲で亡くなっている人もいる。
その「主人公の日常と並行して描かれる誰かの死」が、この『最前線物語』と非常によく似ているのだ。
かたや一兵士たちの日常。かたや一市民の日常。
どちらも「戦争」という大きな「流れ」を俯瞰ではなく、個人の視点から見つめている点も特徴的であり、かつ似ている。


ラストにかぶさるナレーションに、こんな言葉がある。
「この戦記は生き残った連中に捧げよう。やっと助かったんだから」
戦争における真の栄光というものは、
重大な任務を達成する事でも、何十人殺した事でもなく、はたまた見事に特攻をやり遂げる事でもない。
生き残る事だ。
戦争が終わった後も、すぐ隣で死んだ戦友たちの分まで精一杯生きる事だ。
サミュエル・フラーは自身の従軍経験を活かし、それを成し遂げた。声高ではない、だが、非常に力強い映画を作り上げた。
この映画はフラーから僕ら未来の世代に対する、遺言のような作品だ。
『この世界の片隅に』を観て感銘を受けた方々は、本作もご覧になる事を強くオススメする。


イラスト:城間典子
(最初に載せたイラストは雑文集掲載時のもの。
次に載せたものが、今回の記事のために描かれたもの。
両方とも、同じ軍曹を描いているのですよ!)