2018年6月29日金曜日

第11回 梅雨時に『山の郵便配達』はいかが?

{はじめに}この文章は、2016年5月30日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第6回の文章を再録、ほんの少しの修正をしたものです。

もう6月も終わりですが、再録してまでも皆さんに観てほしい映画があるのです。
あと1~2日で7月がやってきますが、これからも雨は降り続き、じっとりとした湿気が日々を包み込んでゆくことでしょう。
そんな暑くてムシムシな日々に、よく似合う映画です。

*今作の挿し絵は元々カラーで描かれたものでしたが、雑文集掲載時、挿し絵はモノクロでの掲載となりました。
それもまた、墨絵のような雰囲気で作中のイメージとよく合っていましたが、今回のblogではカラーでの掲載をしたいと思います。


6月と言えば、梅雨。
梅雨の時期は、「雨降りでめんどくさいなぁ」なんて思いつつも、濡れた道を歩きながら、いつもと違う風景(特に、森が雨で生き生きしてくる)を見れるから、個人的には好きな時期である。6月こそ、森や山が美しい時期だと思う。
そして6月のイベントとしてもう一つ、それは父の日。

6目の見える距離でいつも忙しいお母さんに感謝する母の日に比べて、目に見えづらい忙しさを持つお父さんに感謝する父の日は、皆さん結構おろそかにしがちではなかろうか(え、そんな事はない? 失礼しました)。
今回は、そんな「美しい森や山々」「父親」というワードがピッタリな、つまり6月にピッタリな映画、『山の郵便配達』(1999)を紹介しようと思う。これは中国の映画なのだが、その感触はかつての日本映画にとても近い。
監督のフォ・ジェンチイは、これが監督第一作目。

ところどころ、荒削りな部分というか、演出が先走っている部分があるような印象も受けるが、とても瑞々しく、何より丁寧だ。
荒削りなところはあっても、雑に撮っていないため観ていて清々しい。


1980年代初期の、湖南省西部の山岳地域。若い男(演:リィウ・イェ)が年老いた父親(演:トン・ルゥジュン)の跡を継いで、山奥に住む人たちの為の郵便配達の旅へと出発する。
だが、相棒であり家族であり道先案内でもある飼い犬「次男坊」が、息子の後をついて行かない。まだ次男坊は、息子が配達人であると認めていないようだ。
父親はきちんと息子に仕事を継がせるため、息子と次男坊と共に、最後の郵便配達へと旅立つ……

 
 
別の国のフィクションの話であるにも関わらず、映画に出てくる風景やそこに漂う土地の匂いを、僕は知っている。
それはきっと、僕の故郷(大分)の風景、かつて旅をした様々な場所、往年の日本映画で観てきたような景色などの色んな土地の記憶が、観ている僕を「懐かしい」と思わせるためかもしれない。
「真面目一筋の仕事人間」だった父親は家にいないことが多く、幼い頃の息子はあまり「父親らしい父親」に触れてこなかった。そのため「父さん」と呼ぶこともままならない。
だが配達の旅をしていくうちに、息子は父親の仕事人としての素晴らしさ、人間臭さに畏敬の念を抱く。
そして次第に、息子は父親に笑顔を見せたり、パイプ煙草をもらって吸うなど、開かれていた心の距離が徐々に埋まっていく。
父親は父親で、息子に優しい目線でもって接する。

仕事の事はきちんと指導するが、その目の向こうには絶えず優しさが見え隠れしている。

配達の道中、一行はトン族という山に住んでいる一族の娘に会う。ちょうど村では結婚式で、村はお祭り状態。
父親が小さな頃から娘を知っているというのもあって、村の結婚式に招かれる。息子と娘が楽しそうに踊っているのを見て、父親は昔の自分と息子をダブらせる。
妻もまた、山に住む民族の娘だったのだ。山の娘と付き合い、結婚し、息子が産まれた。
そんな自分の人生を回想しながら、「息子も、この娘と結婚するのだろうか……」と思っていたに違いない。感傷的(&ほろ酔い状態)になりつつも、ここでも息子たちを優しく見つめている。

川を渡るシーンがある。無理せずに迂回しようと言う父親に対し、息子は大丈夫だと言って、父親を背負って川を渡る。
父親は思い出す。昔、息子を肩車して歩いた時のことを。
息子が幼い頃の、数少ない父と息子の、触れ合いの思い出。
それがいまや、大きくなった息子に背負ってもらっている。
息子の成長に、静かに涙する父親。
ベタながら、やはりここでグッとこないワケにはいかない。
本当に、本当に美しいシーンだ。
 

この映画の父親と息子は、不器用な人たちだ。ウチの場合もそうだが、父親と息子二人っきりという状況は何となく気まずく、言葉少なげになってしまう(そして、心の中でモヤモヤし続ける)。
だから、本音で向き合う機会は滅多にないし、あってもどうすればいいか、戸惑ってしまう。
だがこの二人は、旅の中で少しずつではあるが、お互いを知っていく。
だからこそ、二人は心が通じ合ったのだろう。
終盤では、二人は序盤のような気まずさはなくなっている。
この作品は、映画を通して「人物たちが一歩前に進む話」だ。
先述の川を渡る時も、初めて「父さん」と呼ぶ時も、息子にとっては大きな一歩。
しかし映画は、それらをさりげなく描く。このさりげなさこそ、この映画の持つリズムそのものである。
人物の変化や心が揺れ動く様を大袈裟に描写するのでなく、淡々と、かつ丁寧に撮っているのが、今作なのだ。




最後に……適度な距離感と情感を、この『山の郵便配達』は持っている。
雨降りのために室内でくすぶりやすい6月に、是非とも観てほしい。
もしかしたらこの映画が、あなたに何かのきっかけ(例えば、父親と過ごす時間について考えるとか)を与えてくれるかもしれない……そんな一本なのだから。

イラスト:城間典子

2018年5月31日木曜日

第10回 『ライオンは今夜死ぬ』は、決してライオンが死ぬ映画ではなかった……

以前の投稿は2か月前だったのですね……
「月一くらいの頻度」という紹介を止めてしまうか、挿絵担当をメチャけしかけるか……本当にすみませんです。
今回は、そんな2か月前に観た作品を紹介しようと思います。


久しぶりに、劇場で鑑賞した映画について書こうと思う。
日本だけでなく、最近はフランスでの映画作りもしている諏訪敦彦監督と、
フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)で映画史に刻まれ、
今やフランス映画界の生き字引となった俳優、ジャン=ピエール・レオ―。


 
この二人が初めてコンビを組んだ作品が、今回ご紹介する『ライオンは今夜死ぬ』(2017)だ。
レオ―久々の主演映画である事、以前観ていた諏訪監督の『ユキとニナ』(2009)が良い映画だった事もあって
気になっていた映画だったのだが、その二人の名前くらいしか前情報を知らず、どんな話なのか知らないままの鑑賞となった。
なんせ「レオ―の役=ライオンが死ぬって話なんでしょ」などと思っていたくらいなのだ!




舞台は南仏、コート・ダジュール。
老俳優ジャン(ジャン=ピエール・レオ―)は、「死」を演じることの難しさで悩んでいた。
映画撮影が中断されることとなり、彼はかつて愛した女性ジュリエットの住んでいた古い屋敷を訪れる。
そこでは何と、ジュリエットは昔のままの姿、幻となって彼の前に現れた。
再会を喜び、その屋敷で寝泊まりをはじめるジャン。

ある日、その屋敷で映画を撮ろうとした地元の子供たちがジャンの存在を知る。
最初はジャンを変な老人扱いしていたものの、次第に彼に興味を持ち、「僕たちの映画に出てくれませんか?」と映画撮影に誘うまでに。
ジュリエットの幻という過去と向き合いつつ、ジャンは子供たちとの撮影で忘れかけていた感情を思い出していく……



 
老いた自分と変わることのない女性との日々、かりそめの幸せの中で物語は展開していくのかと思いきや、
10歳前後の子供たちの登場、あれよあれよという間に仲良くなり映画撮影。
先ほども書いたように、どんな映画か全く知らずに鑑賞したため「え、幽霊!?」となったかと思えば「え、映画内映画!?」と二転三転の驚き(大袈裟)をしてしまった。



ジュリエットとの事だけを描いていたら、映画は多分もう少し寂しいと言うか、重いものになったかもしれない。
しかし、そこに子供たちを入れたのが諏訪監督の「らしいところ」と言うべきか。
序盤で登場する映画撮影クルーたちの真面目な態度(そりゃプロだかんね!)と違い、ジャンの事を知らない彼らは「本当に俳優?」なんて尋ねるし、撮りたいもののアイディアを喋りまくる。
彼らに満ち満ちているのは、溢れる想像力と行動力だ。



他の映画だと、老人と子供のジェネレーション・ギャップとか、
仲良くなるにしても異なる世代故の境界線のようなものが多少描かれると思うが、この映画のジャンと子供たちの関係は、本当の意味での同志、共犯関係になる。

子供たちの溢れんばかりのエネルギーに、ジャンも負けじと向き合う。
そうして出来た映画は「みんなの撮りたかったものが詰まっている映画」であり、ジャン曰く「単純だけど、それ故に美しい」作品となる。



 子供たちのシーンは多分に即興演出もあるのだろう、正に見事としか言いようのない活き活きした動きを見せている。
即興という言葉に甘えて自由気ままに蹂躙させるのでなく、ちゃんと演技するところはさせている。
『ユキとニナ』でも感じていた事だが、諏訪監督は子供の演出が相当巧い。
この演出の見事さは、トリュフォーやカサヴェテスに匹敵すると言っても、決して言い過ぎではないはずだ。



映画の序盤で、ジャンは「死とは出会いだと思う」と言っている。
ジュリエットの幻や、子供たちと出会った事によって、ジャンは過去と対峙し、現実を生きる歓びを見出す。
死というヤツも、ふとした時に出会うものなのかもしれない。そんな気持ちをジャンは感じたのではなかろうか。
そんなジャンの顔に、悲壮感はない。
彼の顔には、愛する人とまた会えた喜び、子供たちとの撮影で得た楽しさ、死を自分なりに掴むことが出来た男の覚悟が刻まれている。
そんな彼の姿を観ていると、生きる事、死ぬ事に対して少し前向きになれる気がする。
観た人の心の中にいつでも寄り添っているような、そんな素敵な映画だった。


イラスト:城間典子

2018年3月31日土曜日

第9回 まっすぐな瞳を見つけて……『ぼくと駄菓子のいえ』を観る。

{はじめに}
この文章は、2017年1月15日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第13回の文章を再録したものです。


桜の花が満開になり、明日からはもう4月です。
新しい季節、生活の始まりという感じが、町のあちこちからします。
実は僕も、27日に引っ越しをしたばかり。
とは言っても、前の住んでいた所から10~15分ほど離れただけなのですが。
しかし、えらくのどかな場所でして、日当たりは良くて目の前は畑が広がって…… と、自分語りはこれくらいにして。
今回ご紹介する映画は、そんな新しい季節を迎える僕たちに、気持ちのいい風を感じさせるようなドキュメンタリー映画です。 
 
 
規模の大小こそあれど、駄菓子屋という場所は昔から、子供たちのコミュニケーションの場、情報交換の場、交流の場である。
僕もかつては駄菓子屋で、ただ駄菓子を買うのではなく、たむろして取り留めのないお喋りに花を咲かせたり、駄菓子屋前でカードゲームをしたりしたものだ。
時には仲のいい先輩を捕まえ、駄菓子を奢ってもらうという事もあった。
小学校から物凄く近い所にあったため(ほとんどご近所さんみたいなもんだった)、みんな駄菓子屋に寄るし、遊ぶ時の集合場所にもなった。
今思い返すだけでも、子供にとって駄菓子屋という場所は、切っても切れない縁のある場所であったように思う。

そして、果たす役割も物凄く大きい。
駄菓子屋とは、子供たちにとっての、まず最初に出会う「社交場」なのだろう。
 

今回紹介する映画は正に、駄菓子屋が社交場となっていて、そこに集う子供たちと店のおばちゃんたちとの交流の記録である。
(ところで、駄菓子屋やラーメン屋とかに行くと、その店にいる女の人の事を「おばちゃん」と呼んでしまいたくなる事ってありませんか? いかに年が若かろうと……)




大阪府富田林市にある駄菓子屋「風和里(ふわり)」。
松本明美さんとその娘よしえさんの親子二人で営んでいるこのお店には、学校帰りの子供たちの声で溢れている。
しかしその中には、家庭や学校の問題により居場所をなくした子供たちもいる。
そんな彼らに対し明美さんとよしえさんは、時にはお母さんのように優しく、時には厳しく接していく……



僕がこの映画に好感を持ったのは、監督の視線だ。愚直なまでの、まっすぐな視線。
奇を衒ったりナレーションなどで簡単に済ませるのではなく、撮影する対象とがっぷりと四つに組む姿勢。
カメラもまた、風和里を訪れるお客のような距離感で、お店の中、あるいは外で、彼らの話を聞き始める。そんな映画の作り方。
簡単なようで、実はとても時間と根気のいる姿勢だ。
そのおかげで、キャラ立ちしている人物たちに負けない、シンプルながら力強い映像になっていると思う。
松本さん親子をはじめ、風和里に集まる「問題を抱えた」子供たちもまた、魅力的な人物たち。
特に印象に残ったのは、小5にして親分みたいな貫禄のある、こうせい君だろうか。
彼も両親の問題が元で、心中穏やかではない。
だが彼は明美ちゃん(風和里の子供たちは、皆こう呼ぶ)が大好きで、突然フラッと現れては、シュークリームを差し入れに持って来る。しかも子分みたいな友達を連れて。
何だか、やくざ映画に出るときの高倉健のような、『男はつらいよ』の寅さんのような、不器用さと可愛さを持っている男の子なのだ。

そしてフジタくん。高校をドロップアウトして就職活動に悩む彼を、明美ちゃんたちは献身的に世話するのだけれど…… かまってほしいけど余計なお世話だと、愛憎半ばにも似た感情を明美ちゃんたちに向けているフジタくんの姿は、個人的には他人事に思えない。
彼だけ、僕だけがそう感じるのではなく、それはきっと、皆に宿っている感情かもしれない。
そんな危うい感情の流れも、監督は追いかけている。その徹底ぶりに感心するし、この作品が丁寧な映画である証拠なのだとも思う。


子供たちというのは、本当にナイーヴで、繊細で、孤独な存在だ。どんなに虚勢を張っていても、その裏にある顔は誰かを求めている、居場所を求めている顔なのだ。誰だってそう、皆そうだ。
フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーだって、不仲な両親から逃れるために映画館へと逃げ込んだ。
映画館こそ、トリュフォー少年にとって救いの場所だった。映画は人を救う。
風和里に集まる子供たちも、強がって見せたり何でもないように振舞ったりして見せるものの、やはり誰かの愛情と、「自分がここにいても良い」という場所を欲している。
松本さん親子と風和里は、そんな子供たちにとってかけがえのない存在だ。
子供たちが抱えている問題の解決は、順調ではないかもしれない。

だが、風和里があったおかげで、明美ちゃんたちがいたおかげで、確実に子供たちは前へと進んでいる。
彼らを見て、こちらも元気をもらう。これぞ、映画と観客の良い関係。
『ぼくと駄菓子のいえ』は、観終わった後、心にスーッと気持ちいい風が吹くような、そんな映画です。


イラスト:城間典子

2018年3月1日木曜日

第8回 『愛しのタチアナ』こと、ゆる旅コーヒーの巻。

{はじめに}
この文章は、2016年2月18日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』番外編の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。

『はじまりのうた』に続く「春にピッタリ!? 怒涛の2連発投稿」の次なる作品は、大好きなフィンランドの監督、アキ・カウリスマキ監督の『愛しのタチアナ』です。
この掌編と言ってもいい映画が、大好きなんですよ……まぁ、本文中にも書いてあるとおり、コーヒーと旅がメインだから、という単純な理由が大きいのですが。
そう言えば先日、最新作の『希望のかなた』(2017)を観たのです。素晴らしいの一言でした。
この映画も、いずれ当ブログで取り上げたいと思います。



ドラえもんではないが、「あんなこと良いな、出来たら良いな」などと実生活において思うことはないだろうか。僕は何度となくあるが、中でも「車の中で淹れたてのコーヒーが飲めたら」が実現してほしいこと№1だ。
缶コーヒーでもドライブインのコーヒーでもなく、自分で淹れた、自分のコーヒーをである。
そんな僕の願望を、フィンランドの映画監督であるアキ・カウリスマキが映画の中で実現させていた。

その作品を観たとき、僕は「コレだよコレ!」と感嘆したものだ。
その映画こそ、今回ご紹介する『愛しのタチアナ』(1994)というモノクロのロードムービーだ。


アキ・カウリスマキという監督は、現役で活躍している映画監督の中で一番「人を食った」映画を撮る男である。
原色バリバリのセット、魅力的であろうフィンランドの風景をあえて撮らない、登場人物は始終しかめっ面で感情の起伏に乏しい。
映画の中に必ず1回は音楽の演奏シーンが挿入される(作品によっては、歌いきるまで映す作品も!)。
すっとぼけたユーモアが全編を覆っているが、ただ単に面白おかしいのではなくて、不況や難民といった政治的問題をテーマにしている作品が多い。
そのあまりにもブレない映画スタイルは、数多くのファンが世界中にいる。

『愛しのタチアナ』は62分という短い作品で、愛すべき佳作といった趣きなのだが、「カウリスマキ歴」においては重要な作品でもある。
彼のデビュー作『罪と罰』(1983)から出演し、カウリスマキ映画の看板俳優であり続けた俳優、マッティ・ペロンパーの遺作なのだ。
ちなみにこの愛しき俳優は、見た目がオットセイのような人相なので、彼の出ている作品を一度観てしまえば一発で覚えてしまう、俳優の顔を覚えるのが苦手という人にとても優しい俳優でもある。


物語は、コーヒー中毒の仕立て屋ヴァルトが母と家で仕事をしているところから始まる。
このヴァルトという(一応の)主人公が、只者ではなかった。
ヴァルトはコーヒー豆が切れている事にキレて、あろうことか母親を物置に閉じ込め、彼女のお金を拝借し、家を飛び出すのである。
僕もコーヒー大好き人間だが、いくらコーヒー豆が切れているからといって実の母親を閉じ込めはしないよ。
ヴァルトは修理に出していた愛車を引き取りに、修理工レイノ(これを演じるのが、我らがマッティである)の元へ赴く。そして2人は退屈な日常から解放されるため、車で旅へ出た!

……という爽やかな映画ではない。
初めのうちこそ、ヴァルトは車中で大好きなコーヒーを淹れて飲んだり(ここでドライブ用のドリップ式コーヒーメーカーを用いてコーヒーを淹れるのだ。欲しい!)、レイノはレイノで大好きなウォッカをラッパ飲みしながら喋りまくる。
カウリスマキ映画にしてはご機嫌な幕開けかと思いきや、夜になって2人はすっかり黙り込む。
よし、いつものカウリスマキ映画だ。

2人はある店に立ち寄るが、そこで2人の外国人女性と出会う。
1人はエストニア人の女性タチアナ(この役を演じるは、マッティに次いでアキ組常連の女優カティ・オウティネン)、もう1人はロシア人女性クラウディア。
彼女たちはフィンランドへ出稼ぎに来ていたらしく、ヘルシンキの港まで送ってほしいという。
男女4人のドライブ&恋愛ゲームの始まり……とはならない。
ホテルに一泊することになった4人。
さも当然かというように、タチアナはレイノの部屋へ行き、クラウディアはヴァルトの部屋へ。
2人きりになったからといって、ムフフな感じにならないのはお約束。
食堂に行ってもお金がなく、マズいコーヒーを飲むだけ、煙草を吸うだけ、つまらない話をするだけの殺伐とした状況。
しまいにはレイノが「もう寝る」と言い出す始末。
お互いにとって散々な夜だろう。

結局何もないままホテルを後にし、旅を続け、野宿をする羽目になった4人。
ヴァルトとクラウディアが車中で休んでいる間、レイノは勇気を出して車から離れたところで座っていたタチアナの横へ座る。
するとタチアナ、無言でレイノの肩にもたれかかる。そしてレイノはタチアナの肩にそっと腕を回すのだ!
ホテルの時はロクに言葉も交わさなかった2人だが、ちゃんと心は伝わっていたようだ。
この映画唯一のラブシーンだが、「愛してる」などと言ったり、セッ○スをするでもない、不器用だがそれ故にグッとくるラブシーンだ。


別れる直前、女性2人が最後のお礼にと紅茶とサンドイッチを奢ってくれることに。
最初は男たちを小馬鹿にしていたようでもあったが(主にクラウディアが)、彼女たちは感謝の念を忘れてはいなかったのだ。
いつもコーヒーやウォッカばかり飲んでいる男たちの、微妙な反応がまた面白い。
港へ着いて、さぁお別れ。かと思いきや、心変わりした男2人も車ごと乗船してしまう。

思わぬ、だがユル~く再会した4人。
船上でレイノとタチアナのカップルはより仲を深めていく。
下船し、まずクラウディアとお別れ。彼女はヴァルトに小包を渡すが、これは一体なんだろう?
さて次は、タチアナを家まで送ろう。無事送り届けた男たち。
ヴァルトが帰ろうと促すが、レイノは残って彼女と暮らすと言い出した。しかも作家になるとまで宣言。
な、何故に作家なのだ。そんな伏線今まで1つも無かったがな。
大真面目に言うレイノことマッティ・ペロンパー。とりあえず笑わせてもらいました。

図らずも1人で帰ることになったヴァルト。
誰もいない船内で、クラウディアから貰った小包を開けると、なんと電気式コーヒーミルが。
これはたまらない。
コーヒー好きだから貰って嬉しいのは勿論のこと、ほとんど相手をしなかった女性から貰うなんて。なんて素晴らしい贈り物。
突然、あるお店に車が突っ込んだ。顔を出したのは別れたはずの4人。コーヒーを注文し、テレビに映るロックンロールに見とれる4人。

かと思えば、それはヴァルトの妄想だった。ドライブスルー的なお店のテレビで、ヴァルト1人がロックンロールの映像を見ていたのだった。思い出は彼方に……といった感じか。
家に帰ったヴァルトは、物置から母親を解放し、また仕立て屋の仕事に戻る。

冒頭のシーンに戻った。
だが決定的に違うのは、自分を含め4人でグダグダな旅をしたこと。かけがえのない贈り物を貰ったことである。


観客が「次はこう来るだろう」と思っている予想を、スルッと何食わぬ顔でかわしていくのがカウリスマキ映画の真骨頂であり、この映画も例外ではない。
まぁ、カウリスマキ映画に一般映画のような恋愛シーンを期待したりするのがそもそも間違いなのであるが。
カウリスマキ自身が明言するように、彼は小津安二郎やフランス人監督のロベール・ブレッソンの影響を多大に受けている。
したがって、
台詞が少ない、
フィックスの画、
手や小道具のアップ、
(リアクションのほぼない)俳優たちの顔のショットなどで映画が構成されている。

最初の方でカウリスマキ映画の特徴をつらつらと書いたが、まず第一にこのような映画の作り方をしているということが重要だ。
そのため、俳優たちの何気ない顔や動作に注意がいき、その動きがいちいち面白く感じられる。
意味深なショットを撮っているというよりは、「こういう語り口しか知らないんだよ」と言わんばかりなので、観ているこちらは滑稽に感じるし、彼のこうしたブレない撮り方に安心する。
ハマると一生抜け出せそうにないのが、アキ・カウリスマキの魅力だ。


何故、数ある作品たちの中から『愛しのタチアナ』を今回選んだのかというと、実はたいした理由はなく、観やすい上映時間、基本はすべて押さえてある(カラーではないのが押さえられていない箇所だが)カウリスマキ流映画作り、マッティ・ペロンパーの遺作であること、そして何より「コーヒー」と「車で旅をする」という、個人的にマストなポイントが前面に出ている映画であるからなのであった……

イラスト:城間典子

第7回 『はじまりのうた』を観て、音楽の楽しさを思い出してみるの巻。

{はじめに}
この文章は、2016年6月30日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第7回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。

今年に入っての初blogとなりました。読者の皆さん、大変お待たせしました。
本当は違う作品を、1月2月とそれぞれ用意していたのですが、挿絵担当があまりにも多忙のため、絵を描く時間さえ取れず……といった状態でした。

「う~ん、このまま何も更新せずじまいなのは良くない。どうしよう」と思っていたら、何のことはない、過去の文章を紹介すれば良いではないか、と今更気づいたのです。
なので今回は、遅れた2ヶ月分をドドンと投稿します。
3月に突入し、春がそこまで来ていますね。そんな心弾む季節にピッタリの映画を、再録という形ではありますが紹介したいと思います。


音楽との出会いは古本と同じで、いつだって一期一会。
その音楽との出会いによって自分の感情が変化し、人々が繋がり、和解し合い、周りの世界が(少し)変わる。
音楽がもたらす力は、途方もない。音楽は私たちにとって、最もポピュラーで身近な魔法である。
今回紹介する映画は、そんな音楽の魔法によって導かれた人々の映画だ。
その映画とは、2013年のアメリカ映画『はじまりのうた』の事である。



ダン(演:マーク・ラファロ)は落ち目の音楽プロデューサー。
商業的な面よりも、芸術的な面において新人を発掘したかった彼は、とうとう自ら創立したレコード会社をクビになってしまう。
ある日、バーで飲んだくれていたダンは、ステージで歌っていたイギリス人女性グレタ(演:キーラ・ナイトレイ)に可能性を感じ、彼女に「アルバムを作らないか」と持ちかける。


予算もスタジオもない、会社の人間にも取り合ってもらえない、しかし音楽仲間なら多少のツテがある。ダンは言う。「PCと編集ソフト、マイクさえあればどこでも録音できる」と。彼らは、NYのあちこちで演奏、屋外録音でアルバムを制作しようとする。
この一連の録音風景シーンが良い。

防音のためかマイクにストッキング的な物を巻き付けたり、地元の子供たちに協力を求めたり、地下鉄で演奏して警察に捕まりそうになったり、ビートルズのようにビルの屋上で演奏したり。
スタジオの中であるか外であるかだけの違いなのに、見慣れぬ光景故か心地よい違和感。手作り感に溢れていて、とても微笑ましく見える。
(これらの録音風景は、ミシェル・ゴンドリー監督の『僕らのミライへ逆回転』にどことなく似ている。他にもこの映画に近いものを感じるところがあるため、両者は腹違いの兄弟のようにも思える)

何より、彼らがとても楽しそうなのが良い。
音楽は芸術であり商業であり怒りであり癒しであるが、まずもって楽しいものだ。
それを彼らは、アルバムを作っていくなかで思い出していく。
プー太郎状態だった父親に愛想をつかしていたダンの娘も、アルバム制作にギターで参加することにより父を知り、音楽を楽しむ。音楽は人を繋げる。



お気に入りのシーンがある。
身の上話がきっかけで喧嘩をしてしまったダンとグレタ。だがそこでグレタは、ダンがかつて使っていた、2つのイヤホンを繋げて音楽を聴くことが出来るというスプリッターを見つける。
「どんな音楽を?」
「プレイリストは見せないわ」
「プレイリストで人の性格が分かってしまうからね」
「それが恥ずかしいの」
「……見せ合わないか?」

会話の後、2人はお互いの「お気に入りの音楽たち」を聴きながらNYの街を歩き回る。
いつも見慣れてるはずの風景も「音楽の魔法」で彩りのあるもの、意味のあるものに変身していき、2人はついつい踊ったりなんかしちゃったりして!
ゲリラ的に撮られているこのシーンも、何とも生き生きとしていて素敵だ。

人物たちが生き生きしているのは勿論だが、映画そのものが音楽にウキウキして呼吸しているような感じだ。
2人の会話や楽しそうに街を歩くのを観ていると、こっちも「嗚呼、ホントにそうだよなぁ~」と、うんうんと頷いてしまう。

僕もケータイに入っている音楽を聴きながら、色んな所を歩き回るのが好きだ。
(自分だけじゃなく、他の人もそうだろうけどね……)


 気持ちいいドライブにしたい時、ひとりで物思いに耽りたい時、アイディアに詰まった時、どうしようもない時、気分を盛り上げたい時、思い出の曲を聴いて昔を思い出す時、たまたまラジオを聴いている時、大切な人と時間を過ごす時etc……音楽は傍にある。
たとえ聴くためのものが無くとも、覚えていれば自分でも歌える。
音楽は本当に、僕たちが思っている以上に生活に密着しているように思う。
僕はご飯を食べるように映画を観、映画を愛しているけれど、この映画に出てくる人物たちもご飯を食べるように音楽を愛している。

それはきっと彼らだけなのではなくて、僕も、これを読んでいる貴方もそう。
そして音楽のもたらす力と楽しさを噛みしめながら、またきっとこの軽やかで素敵な映画を観るのだろう。


イラスト:城間典子

2017年12月31日日曜日

第6回 どこまでも独りぼっち。『鉄砲玉の美学』の寂しさ。

 
今年も、もう残り僅か。
皆様は、初日の出を拝みに近くの山へ登ったりするのでしょうか。僕はおそらく、寝正月ですが!
地元に帰省し、初詣をする際に少し山を登るのですが、僕が山登りなんて言ったらそれくらい……やなぁ。

さぁ、気分を変えて!
山の出てくる映画で印象深かったのは、先日惜しくも亡くなった渡瀬恒彦主演の『鉄砲玉の美学』(1973)。
監督は、深作欣二や鈴木則文らと共に70年代の東映映画をリードした中島貞夫。
渡瀬とのコンビで撮った『狂った野獣』(1976)は、邦画屈指のカーチェイス映画だった。
普段は東映でバリバリ活躍している二人だが、この映画は日本アート・シアター・ギルド(ATG)で作られたもの。
低予算による製作スタイルは「1千万円映画」と言われながらも、映画会社からフリーになった監督(大島渚や吉田喜重)や新進気鋭の監督(黒木和雄や実相寺昭雄、寺山修司など)たちが、それぞれ自分の作りたい映画を作った。
この『鉄砲玉の美学』はATGの低予算で作られたものではあるが、キャストやスタッフはいつもの東映の面々。
なので普段作られていた東映の映画と比較してしまいがちだが、ヤクザをヒロイックに描く事が様式化していた当時の東映では作られなかったであろう、アンチテーゼの映画であった。

ウサギの路上販売をしながらブラブラと日々を過ごしているチンピラ、小池清(演:渡瀬恒彦)。
そんな彼はある日、九州進出を目論む天佑会が送り込む鉄砲玉として指名される。自由に使える100万円と拳銃を手渡されて。
宮崎県に飛んだ清のやるべき事は、地元のヤクザたちの縄張りで暴れ回り抗争のきっかけを作るというもの。
しかし派手に遊び回っても、喧嘩になるほど彼はまだヤクザになりきれない。地元のヤクザ南竜会も、事を荒立てようとしてこない。
逆に南竜会から送られてきたチンピラ(演:川谷拓三)に命を狙われたりするものの、清は彼を殺す事も出来ない。
彼はただひたすら、南竜会の杉町(演:小池朝雄)の情婦である潤子(演:杉本美樹)と情交にふける日々を過ごすのだった。
そんな中、南竜会が関東の組織のバックアップを受けたと知り、天佑会は九州進出を取り止めることに。
いよいよ用済みとなった清は、潤子から聞いた霧島に行こうとするが、彼女の姿も消えていた……

もしこの作品が東映で作られていたとしたら、小池清はうだつのあがらないチンピラながらも鉄砲玉として派手に暴れ回り、華々しい散り様を見せたかもしれない。しかし中島監督はわざわざATGという不慣れなグラウンドで、男の惚れるヒロイズムやアナキズムを一切纏わせず、徹底して「何でもない男」として小池清を描いた。

売れないウサギに必要以上の餌を与えずに「一にガマン、二にガマン。三四がなくて五にガマンや」とうそぶきながら、八百屋で拾った野菜くずを焼きそばにして食べる清。如何にくすぶった日々を過ごしているのかと分かる、良いシーンだ。
ウサギも清も、外へ弾ける(ウサギの場合は買われる、清の場合はヤクザとして認められる)瞬間を今か今かと待っている者同士に見えてくる。しかし彼らは、今までずっと外から目を向けられていなかった。
そんな時にかかった声に意気揚々とする清。
一緒に同居していた女とウサギを残して、一丁前にスーツを着込み、貰った拳銃に惚れ惚れする。
鏡の前で「ワイは天佑会の小池清や……」と何度もつぶやく様子は、『タクシー・ドライバー』(1976)よりも3年早く「ボンクラが急に力を手に入れて自分に酔うシーン」として描かれている。こういう男は、全世界共通だなぁ。
『タクシー・ドライバー』のトラヴィスは児童売春の娼婦として働いていたジョディ・フォスターを救う事で最終的に世間に認められるが、清はただの使い捨て役。彼が宮崎で暴れたとしても、それを評価する者は誰もいない。
鉄砲玉としての活躍も見込めず、ただ一時の快楽に耽る清。
それが永遠ではないと分かっていても、そこにすがるしか自分を保てない歯がゆさ。
自分に気があると思っていた女はふいと姿を消し、かつて同居していた女がやって来て、また一緒にいてあげると優しくかける言葉を拒絶してしまう。
どこで自分は間違ったのだろう。誰にこの気持ちをぶつけられるだろう。
彼は24歳の誕生日を誰にも祝ってもらう事なく、ちっぽけな、あまりにちっぽけな最期を遂げる。
オープニングの『ふざけるんじゃねえよ』をはじめ、要所要所で流れる頭脳警察の曲も、この映画では一介のチンピラによる、誰にも聞こえることのない遠吠えのように聞こえてくる。
憧れの霧島。彼にとって霧島とは何だったのだろう。





*清を鉄砲玉として利用する天佑会のお偉方や他のヤクザたちの会話シーンが映画では直接描かれることなく、画面外からの声として流れる。明らかに会合シーンを撮るほどの予算が無いためであるが、かえって「主人公の知らない水面下で、何もかも計画されているのだ」というやるせなさ、狡さが表れているようで、こういう表現もありだな、と思った次第。

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というわけで、今年の『映画、めくるめく冒険』は終了です。
今年最後の映画紹介が今作で良かったんかなとは思ってしまっても、否、やっぱり良いんです!
更新頻度が月イチという、凄~く亀の歩みなブログでありますが、どうか皆様、長~い目で当ブログを、来年からも応援していただきたく思います。
それでは、良いお年を~!

イラスト:城間典子

2017年11月12日日曜日

第5回 『SELF AND OTHERS』には、今日も風が吹いている。

{はじめに}
この文章は、2016年2月29日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第3回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。
前回、山形国際ドキュメンタリー映画祭について、と言うよりは佐藤真監督について書いたため、以前に書いていた『SELF AND OTHERS』の感想を載せる事にしました。
前回にも書いた事なのですが、この作品は特に好きなドキュメンタリー映画でして、好き好き具合が爆発しているかもしれません。悪しからず。



もう3月。春がそこまで来ている。 僕は毎年、春を風で感じる。
冬の冷たい風から温かな風に変わって、思わず顔も心も綻んでしまう。
春に一番重要なのは、生命の喜びを感じさせてくれる風だ。
同じように、映画にとっても風は重要な要素だ。
風を上手く描写している映画はそれだけで良い映画だと分かるし、反対に風をおろそかに描いているような映画は駄作だと断言出来る。
(例えば、宮崎駿の映画やアンドレイ・タルコフスキーの映画、エミール・クストリッツァの『アンダーグラウンド』などは良い風が吹くお手本のような映画たちだ)


今回紹介するドキュメンタリー映画『SELF AND OTHERS』(2000)にも、素晴らしい風が吹く。
この映画の監督は佐藤真。彼はドキュメンタリー作家で、デビュー作の『阿賀に生きる』(1992)が大反響を呼んだ人物である。この『SELF~』は、『阿賀に生きる』、『まひるのほし』(1998)に続く、3作目の映画(もっとも、この映画は僅か53分という短編映画だが)だ。
この映画は、1983年に36歳という若さで亡くなった、写真家の牛腸茂雄(ごちょう しげお)についての映画である。
しかし、牛腸茂雄がどんな人間でどんな生き方をしてきたのかを暴くドキュメンタリー映画ではない(人物紹介的なものは、冒頭でちょこっとのみ)。

では何を描いているのか。一言でいえば、牛腸が生前見ていたであろう物、風景をカメラが捉えていくという妙な映画なのだ。
かつて牛腸が被写体たちを撮影した(牛腸の撮る写真は、そのほとんどがポートレート写真である)場所にカメラが赴きその場所を映していると、さもフラッシュバックしたかのように以前そこで牛腸が撮影した写真が画面に映りこんでくる。
第三者であるはずのカメラが、映画そのものが回想をしているのだ!
これは何とも不思議な作りだ。

そして(今や超のつく有名俳優になった)西島秀俊による、牛腸が実の姉に送った手紙の朗読がそれらの風景に被さる。
手紙を読んでいるだけにもかかわらず、彼の日記を聞いているような錯覚も覚え、西島の声が牛腸本人の声のようにも聞こえてくる。
他にも、牛腸がまだアマチュアの頃に友人たちと撮影した短編映画『街』と『THE GRASS VISITOR』が流れたりする。
観ている側は、過去の風景と現在の風景が混じりあい、どんどん混乱していく。
ここで興味深いのは、そのような作りをしているのに映画そのものはノスタルジーに浸りきっていないという点だ。
そこには、もうすでに死者となった牛腸の視点の再現(佐藤監督たちは、牛腸の見てきたであろう風景を映すことは出来るが、それは牛腸本人の目線そのままではない)であるからという作り手側の第三者的な、俯瞰した目線があるからではないだろうか。

終盤、突然か細い声が画面に割り込んでくる。
「もしもし、聞こえますか。これらの声はどのようにきこえているんだろうか」と。
これは、他ならぬ牛腸茂雄の肉声なのだ。
牛腸は幼少の頃から生死にかかわる重い病に患わされており、病弱な体であった。それが声にも表れている。蝋燭の火のように、フッと息を吹けば消えてしまいそうな声だ。
我々観客は、それまで西島による朗読の声で牛腸茂雄という人をイメージしているため、ここにきての本人登場は「おおっ、本物きた~!」というよりは「え、これが牛腸茂雄なの…?」という戸惑いの方が強い。
たった1つのショットや演技でその映画が決定的なものになることがよくある。
この『SELF~』においては、 それは間違いなく牛腸本人の声である。
今にも息絶えそうな声であるが、他のものを一切寄せつけないほどの声、強度のある声、まさに「生きている」としか言いようのない声。
この声を核として、佐藤真らはこの映画を作っ たに違いない。


冒頭、青草の茂る広い庭に一本の大きな木が映っている。そしてそこに風が吹き、木が揺れる。
僕が『SELF~』を思い出すとき、この木と風、牛腸の声を思い出す。あまりにも力強く印象的な木と、風。
この風景は、映画の最後にも再び登場する。映画そのものが旅をしてきて、一周回ってきた。
我々は知らず知らずのうちに、風に誘われて映画内の空間(それ即ち、牛腸空間なり)を旅し、
そしてまた最初にいた場所に戻ってくるのである。
この映画は牛腸茂雄についての映画であるが、同時に「記憶を辿るロードムービー」でもあるのだ。


イラスト:城間典子