{はじめに}
この文章は、2015年12月30日発行(こんな年末に最初の号を発行していたんですねぇ……)の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第1回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。
こんばんは!
新年度を迎えただけでなく、いよいよ平成があと数時間で終わるという今日!
いかがお過ごしでしょうか?
僕は相変わらず映画の鑑賞本数が少なく(でも、映画館には向かうようにしている…… しているんですよ!)、かと言って読書がメチャはかどっているワケでもない、タンジェリン・ドリームの音楽を改めて聞いて惚れ惚れしたり、ガンダムのポケ戦を観たので次は08小隊を観ようとしている日々です。
戦隊ものなら、五星戦隊ダイレンジャーが気になって見始めたら予想以上のジェットコースター展開に面食らっております。
……誰も聞いとらんっての。
ここ最近観た映画で面白かったのは、DVDで観たキャスリン・ビグロー監督の(単独での)監督デビュー作『ニア・ダーク/月夜の出来事』(1987)でした。
実は以前にも観ている作品で、ふとした時に観返したくなる映画なんです。
自分的に「オイシイ」と思っているポイントをことごとく押さえていて、たまらんのです。
(いつか紹介したい)
さて、今回紹介する映画は、橋口亮輔監督『ぐるりのこと。』(2008)です。
この映画、僕が邦画で一番好きな映画だったりします。
一番好きな邦画なので、以前taomoiya雑文集で映画レビュー連載をした時も、一番最初に取り上げました。
それくらい僕にとって本作は大事な映画なのですが、その魅力がちっとでも伝われば良いなぁと思いながら、その記事を再録したいと思います。
映画の内容も、90年代が終わって2000年代に突入していく話なので、平成から令和への移り変わりという節目に良いかな、と思いまして。
(再録記事のため、文章の書き方が「です・ます調」ではなく「である調」です。悪しからず)
この映画は、翔子(演:木村多江)とカナオ(演:リリー・フランキー)という一組の「何があっても絶対に別れない夫婦」の生活を、1993年から2001年までの約10年という時間をかけて描いている。
この約10年の間には、20世紀が終わろうとしているにもかかわらず(いや、だからなのかもしれない)、オウム真理教による地下鉄サリン事件や宮崎勤の幼女連続誘拐殺人事件、9・11テロなど陰惨な事件が相次いだ。
この映画の中でも、それらの事件が数々の裁判シーンによって(ある種のデフォルメを施されて)描かれる。
カナオは法廷画家であり、事件の当事者たちを目の当たりにしていく。
ここで興味深いのは、カナオが単なる観察者であるところだ。
彼は犯罪者たちを見て怒りに駆られるでもなく、淡々と法廷画の対象として彼らを描く。
この淡々と、という表現はカナオの翔子に対する態度でもあるし、映画のテンポでもあるし、何より橋口監督の目線である。
夫婦の周りで起こることをやたらドラマチックに見せたり、「平和なのにどこかネジが外れてきたような日本と日本人」に対し「これでいいのか!?」と声高に言う映画ではない。
そんなどこかおかしい日本で、それでも「淡々と」生きていく2人の物語なのだ。
俯瞰しているかのような目線だが、橋口監督が主役2人に向ける眼差しは限りなく優しい。
翔子は何事もきちんとしたい性格の、出版社に勤める女性。
母親や兄夫婦からは「あんな奴(飄々とした性格が災いしてか、翔子の家族らからはよく思われていないカナオである)とは別れた方が」と言われるものの、カナオとの生活が幸せだ。
2人は子供を授かっていた。
だが、生まれたばかりの子供は亡くなって(泣き崩れる2人や病院でのシーンがあるワケではなく、位牌と飴玉だけでそれを表現している。これぞ映画表現)しまう。
この頃から、彼女は心を病んでいく。
カナオに秘密で2人目の子供の中絶手術を受け、より深い罪悪感に追い詰められる。
そんな彼女がある台風の夜、ついにカナオに対し心のわだかまり、不安、恐れをぶつけ、取り乱す。
だがカナオは慌てず騒がず、彼女が殴りつけても咎めない。カナオは取り乱している彼女を受け入れる。
「どうして私と一緒にいるの?」と、翔子が泣きながら訊く。
「好きだから…… 好きだから一緒にいたいと思ってるよ」と、カナオは静かに言う。
この言葉に嘘はない。
不器用な2人だからこそ、この一連のシーンに胸を打たれる。
僕は、何度もこのシーンで救われた気がする。
(鼻水とちょっとエッチな話がこれに続いて、いかにもリリー・フランキーらしい自然さ&橋口監督らしい観察描写で素晴らしい)
ここがちょうど映画の半分ほどで、かつ一番の盛り上がりどころと言っていいだろう。
嵐の夜を乗り越えて、翔子はまた1人の人間として生き生きと動き出す。
天井画を描き始める翔子と、法廷画家の仕事を続けるカナオ。また2人に、幸せなリズムが息を吹き返していく。
この後も素晴らしいシーンと演技の連続なのだが、此処では割愛。
僕が書きたいのは「何があっても絶対に別れない夫婦」の事だ。
個人的な話で恐縮だが、この映画を観たとき「理想の夫婦だなぁ、こういう人になりたい」と思ったものだ。
不器用で世渡りが決して上手とは言えない2人。
しかし互いを信頼し、絆を深め合い暮らしていくことで、彼らが真に芯の強い人間なのだと分かる。
それは人間的な強さで在り、人が生きていくうえで必要なものだと僕は思う。
まず、相手を受け入れてみる。相手を観察する。
そこから、相手のみならず自分自身も見えてくるのではないだろうか。
リリー・フランキーは、この前にも映画に数本出演している
(演技&映画デビュー作は何と、キング・オブ・カルトな映画を連発した石井輝男の遺作『盲獣vs一寸法師』だ!)のだが、この『ぐるりのこと。』が本格的な映画出演作と言っていい(はず)。
今や人気俳優として活躍している彼だが、本作での演技は正直言って拙い(つまり本作以前の彼の演技は…… 推して知るべし)。
だが、その拙さはカナオの不器用さにきちんと繋がっているため違和感はない。
橋口監督は『ぐるりのこと。』を「主役2人のドキュメンタリーを撮るつもりで臨んだ」と発言している。まさにその通り。
この映画は、基本的に長回しで人物の動きや会話をフレームに収めるのだが、その緊張感たるや。
最近の映画では日常の倦怠感や時間のダラダラしている様を映すために長回しを使っているが、
橋口監督の場合だと事態はそれほど甘くない。
彼が執拗なほど長回しを使うのは、人物たちがどのように他者と近づいてコミュニケーションをとるのか、どのように人は他者と距離を置いたりするのかという「観察者」である彼の性質、姿勢から来ているものだ。
時に冷たいその目線は我々観客を不安にさせるが、安心しよう。
彼はどんな絶望的な状況下に置かれている人物たちにも一抹の光を与えてくれる。
余談。
この映画でリリー・フランキーは演者として目覚め、役者として大成するきっかけを得たのだが、
それは翔子を演じた木村多江にとっても同じで、この映画で彼女は初めて主演した。それまでは脇役止まりだったのだ。
この役を演じた後も、ちょこちょこ主演しているものの、やはり脇役が多い。
妙に演者づいてきたリリー・フランキーばかりが主役・準主役級に出演し、木村多江のような女優を放っておく日本の映画界とは一体どれほど愚鈍であるのだろうか!
最後に、僕は「三大・夫婦もの映画」という、夫婦もの映画の中で特筆ものの3本を自己満足で選んでいる。1つは今回紹介した『ぐるりのこと。』で、あとの2つはジョン・カサヴェテス監督の『こわれゆく女』(1974)豊田四郎監督の『夫婦善哉』(1955)なのだが、いずれ紹介出来たらなぁと思う。
といった内容でした!
この後『こわれゆく女』は、雑文集で無事(?)紹介する事が出来ました。
しかし最後の『夫婦善哉』は紹介出来ておらずで、両作ともいつか紹介したいです。
では、令和を迎えても、細々と続けてゆく当blogを何卒よろしくお願いします。
イラスト:城間典子
(僕の映画レビューに初めて彼女の絵が載った、記念すべき一枚です。ここから始まったのかと思うと、感慨深いです。)
明けましておめでとうございます!
と言っても、既に年が明けて既に3月1日。忙しさにかまけていたらコレです。
僕は本当にblogを書くのに向いていないなぁ、締め切り間近じゃなきゃ描けない漫画家かよ!?
と突っ込んでしまう事しばしばです。
(まぁ今回は挿絵の城間さんも随分待たせてくれたもんですから…… ザ・言い訳タイム)
反省ついでに、この1~2月は全然映画を観れなかった…… 劇場だけでなく、自宅でのDVD鑑賞も。
ホントに、どうしちゃったんだ。自分。
と、反省してばかりでは埒が明かないので、新年に突入して劇場で3番目に観た映画について書こうと思います。
(ちなみに1番目と2番目は、地元大分で観た『マイ・プレシャス・リスト』(2016)『ア・ゴースト・ストーリー』(2017)です)
その映画は…… マイケル・チミノ監督が1978年に放ったベトナム戦争映画『ディア・ハンター』です!
新しい年に入って早々、こんな暗い映画でいいのかと思いつつも、4K修復版の文字につられて観に行きました。結果、やはり気持ちが「ず~ん……」となってしまいました。
ペンシルベニア州ピッツバーグ郊外にある町、クレアトン。
ロシア系アメリカ人のマイケル(演:ロバート・デ・ニーロ)、ニック(演:クリストファー・ウォーケン)、スティーヴン(演:ジョン・サヴェージ)、スタン(ジョン・カザール)、アクセル(チャック・アスペグレン)、ジョン(ジョージ・ズンザ)は、この町の製鉄所で働いており、休日には鹿狩りへ赴く仲の良いグループ。
そんな彼らにもベトナム戦争の波が押し寄せ、マイケル、ニック、スティーヴンが徴兵される。
北ベトナム兵らの捕虜となり、捕虜同士で行われるロシアンルーレットの賭け事に強制参加される3人。
この出来事が、後の彼らの人生を大きく狂わせる事となる……
本作を初めて観たのは4~5年前、京都みなみ会館によるオールナイト企画「マイケル・チミノ ナイト」の時でした。
それまでは、名前は知っていたものの(品質の良いDVDが出回っていなかったというのもあり)観ていなかったのです。
同時に上映された『天国の門』(1980)はデジタル修復版による美しい画面でした。
対して、『ディア・ハンター』は経年劣化したフィルムによる上映でした。
このフィルム上映も貴重極まりないものだったので感謝の念でいっぱいなのですが、フィルム傷は多い&画面が暗いために、映画の感触がとても生々しく感じられ、ただでさえ暗い内容の映画がより一層暗くなり、僕のトラウマ映画となってしまいました。
もう大学も卒業する頃だったというのに。
しかし今回見直して、やはりトラウマになるだけあるなぁとしみじみ観ていました。
「ロシアン・ルーレットの出てくる映画」と聞かれて真っ先に挙がるであろう本作は、なるほど凄まじい迫力。
マイケルたちが強制的に参加させられる賭けロシアン・ルーレットの描写は、本当にじわじわと嫌~な気分にさせてくれます。
圧倒的な恐怖、絶望、緊迫感……
この一連の「地獄のベトナム」がここまで効くのは映画の前半、つまり結婚式&壮行会のシーンがあるからでしょう。
正確な時間計測をしていないので分からないのですが、少なくとも映画が始まって1時間は、グループの一人であるスティーヴンの結婚式、それと兼ねて行われるマイケル、ニック、新郎スティーヴンの壮行会の模様が延々と描写されます。
以前オールナイトで観た時は「まだ続くのか」と思えるほど長く感じられたシーン、久々に観てどうだったか…… やはり長い。
6人の仲の良さや、密かにニックが想っている女性リンダ(演;メリル・ストリープ。若く、綺麗で、可愛らしい!)とのやり取りなどが描かれるワケですが、印象に残るのはダンス。
結婚式シーンの半分がダンスシーンじゃないの、と思ってしまうくらいにみんな踊っています。
しかしこの長い長い結婚式がある事によって、後のシーンに効いてくる。
ベトナムで地獄を体験した後のマイケルたちの有り様を観ていると、
「嗚呼、あの時はみんな笑い合っていたのに……」と悲しくなってきます。
後の超大作『天国の門』でも長すぎるダンスシーンがあり、その後大きな悲劇が主人公たちを襲うのですが、物語のバランス的に上手く作用していなかったような気がします。
『ディア・ハンター』の場合は、失敗すれすれのところで奇跡的に成り立っていると言っても過言ではないでしょう。
グループのリーダー的存在であり、鹿狩りの名手、ベトナムでも戦争の理不尽さに発狂しそうになった友人たちを鼓舞し続けたマイケルも、戦争から帰って来てからは寡黙になり、鹿を撃つ事も出来なくなってしまいます。
「俺はどうしちまったんだ」と分かりやすく自問したりするのではなく、鹿を、他者を見つめる眼差しで己の変化を観客に伝えるデ・ニーロの演技は流石の上手さです。
そして何と言っても、ニックを演じたクリストファー・ウォーケンですよ!
一回目を観た頃の彼の印象は「色んな映画に出ている上手い人」くらいの認識だったのですが、ある日『ゴッド・アーミー/悪の天使』(1995)での「死の天使ガブリエル」役を観て「スゴい色気だ!」と惚れてしまい。
そんなほの字で観てしまっているので、彼が序盤で魅せる笑顔が尊いこと……
後半からの彼を観る度に「嗚呼……」と溜め息ばかり。
演技も上手いし何とも言えない存在感だしで、まったく罪作りな人ですね、クリストファー・ウォーケンって俳優は!
なんだかラブレターみたいになってしまいましたが、話を戻して。
本作で重要なのは「主人公たちがロシア系アメリカ人であること」です。
この話を普通のアメリカ人の話としたら、序盤と最後に歌われる『ゴッド・ブレス・アメリカ』の意味合いがまるっきり変わってくるのです。
ベトナム戦争というアメリカが仕掛けた大規模な、しかも無意味な戦争は、移民である主人公たちをも巻き込み、他の多くの兵士と同様に、かつての平穏な日々を取り戻すことが出来ないくらいに心を破壊させます。
この映画でよく受ける批判として「加害者であるアメリカ側が被害者面をしている」という意見があります。
確かに、マイケルたちを「ただの」アメリカ人として見るならば、そう見えなくもないでしょう。
しかし、彼らはロシア系アメリカ人なのです。アメリカが戦った北ベトナムの背後にいた国家、それはロシアです。自分たちの真の故郷たるロシアと(冷戦という形ではあるものの)戦うことになり、ある者は精神を病み、ある者は死に行くのです。
なるほど、壮行会の際に歌われる『ゴッド・ブレス・アメリカ』は、現在アメリカに住むマイケルたちを、これからアメリカのために頑張って来いと鼓舞する意味で歌われたものでしょう。
しかし、ある者の死を通して最後に歌われる『ゴッド~』は、果たして同じような意味合いでしょうか?
僕には最後の歌の場面は、皮肉な運命に翻弄されたマイノリティーたちによる悲しみの象徴として見えました。
祖先たちが夢見てやってきた自由の国アメリカ。子孫である自分たちの運命を粉々にした国アメリカ。しかし此処しか彼らの帰る場所はない、そのやりきれなさ、悔しさ、悲しみ。それがあの歌に表れてはいないかと。
後の『天国の門』『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』(1985)、もっと言えば監督デビュー作である『サンダーボルト』(1973)でも、マイケル・チミノはマイノリティーの悲しさをテーマとしていました。
彼が何故そこまで「彼ら」の存在を描き続けたのか、僕はまだ分かりません。
彼が遺した映画たちを観続ける事で、その疑問を考えていきたいと思います……
イラスト:城間典子
※今回の挿絵は、映画のクライマックス部分。
どんな絵を描いてくれるのかは僕も分からないので、今回の絵には「ほおっ!」と驚きました。
なんせ『ディア・ハンター』と言えば、猟銃を持ったデ・ニーロとかロシアン・ルーレットしてる時のウォーケンの写真とかが有名ですから。そういう「アップの画」を描くのかと思っていたのです。
しかしながら、この絵も、映画が映し出す「逃れられない地獄っぷり」を見事に捉えてるなぁ~と思います。
(シロート評論家か、あんたは)
お待たせしました!
私的2018年ベスト10、5位から1位の発表です!
かっとばしていきましょう!
5位 『モアナ 南海の歓喜』(1926,1980,2014 ロバート・フラハティ(共同監督:フランシス・フラハティ/モニカ・フラハティ))
「ドキュメンタリー映画の父」と呼ばれている(確かそうだったはず)ロバート・フラハティ。
以前観た『極北のナヌーク』(1922)が予想以上の面白さだったので、本作も期待して観に行きました。
結果、素晴らしかった。
本作は1926年の段階ではサイレント映画として公開され、その後1980年に娘のモニカが撮影した島に赴き、島の生活の音を録音しました。
こうして80年にサウンド版『モアナ』が完成し、2014年、今度は2K修復による美しい画面も獲得。
今回観れたのは、その美しい画面と音を刻み込んだ決定版『モアナ』でした。
何とまぁ豊かな映画でしょう。
後から足された島の音という音は、26年の撮影当時に録ってきたとしか思えないほど自然で、とても生々しい。
繊細な音の設計が本当にお見事。
カメラワークも面白く、けっこう引き気味の画が多いです。広大な大自然の中で暮らしているというのが一目で分かります。
ベタではありますが、こういう基本を押さえた演出って本当に大事だと思います。
島の少年がヤシの木に登るシーンがあるのですが、ここは面白いです。普通なら画面いっぱいにヤシの木の全貌を見せて、そこを登っている少年が小さく映るといった演出をする事が多いかもしれませんが、
この映画では少年が木に登っている→木に登っているから少年が画面から消える→消えた時にカメラはパンをして少年を追いかける。少年は登り続けている→これの繰り返しです。
木がどれほどの大きさなのか想像力を掻き立てられますし、ゆっくりゆっくりしたテンポでカメラが追いかけるので、妙な笑いがこみ上げてくる、ユーモラスなシーンでもあります。この演出の自由度!
ドキュメンタリー黎明期だからこそ出来た遊び心なのかもしれません。
4位 『若おかみは小学生!』(2018 高坂希太郎)
これも大当たりの映画でした。そもそも、あの高坂監督(『茄子』シリーズは傑作!)の新作なんだから面白くないワケがない!
と信じて出かけたのが良かった。94分の中におっこの成長っぷりが、周りの人々がおっこによって癒され、変わっていく様が丁寧に描かれており、何より、おっこが可愛かった!
キャラクターデザインを見た時には「うっ……」となったのですが、それでも高坂監督を信じて良かった。
動くことによって、おっこの可愛さが引き立つんです!
小林星蘭ちゃんも、ハマり役でしたね。
そうそうこの映画、やっくんこと薬丸裕英さんやホラン千秋さん、はてはバナナマン設楽さんなどの芸能人が多くキャスティングされており、観る前は大丈夫かなぁ、芸能人起用かぁと思っていました。
しかし、皆さん良かった!
上手いか下手かは各々が判断する事として、皆さん見事にハマっていました。
特にホラン千秋さん。
さすが、かつて『魔法戦隊マジレンジャー』(2005)に出ていた(悪の幹部側で)だけの事はあるなぁ。そこでアフレコ鍛えられたんだろうなぁ。と、感慨深く観ていました……
良かった尽くしの良い映画でした。
3位 『寝ても覚めても』(2018 濱口竜介)
正直言って、これまでの濱口映画(『PASSION』(2008)など)は「ほー」と思う事はあっても好きになれないなぁと思っていたのですが、本作にはビックリしました。
この人の映画、ここまで面白かったっけ!? と疑うほどに。
長回しの多用で人物の動きをダラダラと追い続ける今の日本映画において、ここまで視線の事を律義に考える人がいたなんて! と感激してしまいましたよ。
演者の方々も、背伸びしてない感じで好印象。東出昌大さんは、以前から好きな役者さんでしたが、本作でより好きになりました。
これはいよいよ、あの『ハッピーアワー』(2015)を観なきゃだゾ……
はい、映画ファンを称したモグリが此処にいます。すみません。
2位 『ボーダーライン』(2015 ドゥニ・ヴィルヌーヴ)
開館一周年を迎えた、京都は出町柳の映画館「出町座」で『ボーダーライン ソルジャーズ・デイ』(2018)が公開されるというので、前作も一緒に上映しておりました。
Blu-rayを積ん見状態にしていたので、「どうせ観るなら映画館が良いな」と思って出向いたら大当たりでした。
映画館で観てこそ映える作品でしたね!
もっとアクションしている映画かと思っていましたが、ドゥニ監督の作家印が見事に刻まれた、ヒリヒリする人間ドラマの傑作でした。
出口の見えない地獄をひたすら進む主人公たちにシンクロするヨハン・ヨハンソンの不穏な音楽、引きの画で圧倒的な絶望と説得力を生み出すロジャー・ディーキンスのカメラ。
そして徹底的にドライな目線で、まるで神の如き視線でもって人物たちを見つめるドゥニ監督の演出…… いやぁ、凄かった。
さて、栄光の第1位は……
1位 『1999年の夏休み』(1988 金子修介)
有無も言わせぬ、ぶっちぎりの1位です。
この映画を観れたからこそ、中村由利子さんを知り、ヘルマン・ヘッセを買い、
竹宮惠子さんの『風と木の詩』を読もうとしているのですから!
(皆さん、「そこは萩尾望都さんじゃねーの」という突っ込みは無しで!
萩尾さんよりも竹宮さんの絵の方が個人的には好きでして……)
そう。以前このblogで本作を紹介した後に、DVDを手に入れたのです。
レターボックス・サイズかつあまり綺麗な画質ではないのですが、いつでも4人に会えるワケです。
加えてこのDVD、本編音声だけでなく、中村由利子さんのBGM(主に劇中で使われた『風の鏡』からの音楽。
しかし、他のアルバムの曲も豊富に収録)が流れる音声トラックもありまして……
なので、BGMならぬBGVとしても楽しんでいます。ハイ、幸せです。
しかし、定期的に観返してしまう度に「則夫、かわいいよ則夫」状態になってしまうのは流石にマズい気がしている今日この頃です。
さて。2018年に劇場で観た映画たちを振り返ってみました。
旧作の割合が本当に多いなぁ……
懐に余裕がないと、どうしたって「観たかったあの映画」とか「本邦初上映」とかに惹かれてしまうんですよ。
ところで、今回のランキングに入れられなかった作品たちの多かったこと!
『暗殺のオペラ』(1970 ベルナルド・ベルトルッチ)
『動くな、死ね、甦れ!』(1989 ヴィターリー・カネフスキー)
『恐怖の報酬』(1977 ウィリアム・フリードキン)
といった、何れも観たかった幻の映画たちが、美しいリマスター版で映画館で観られた事も大収穫でしたし、
『犬ヶ島』(2018 ウェス・アンダーソン)
『ウインド・リバー』(2017 テイラー・シェリダン)
『希望のかなた』(2017 アキ・カウリスマキ)
『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス』(2017 ルーシー・ウォーカー)
『ライオンは今夜死ぬ』(2017 諏訪敦彦)
『ワンダーストラック』(2017 トッド・ヘインズ)
などの最新傑作が沢山あって、ランク付けに困りました。
皆さんは、どんな映画を映画館でご覧になりましたか?
また来年も、無精者なりに、いち映画ファンとして地道に様々な映画を観ていこうと思います。
それでは、よいお年を!
イラスト:城間典子
(昨日に引き続き、映画館にまつわるイラストたちです。あ、1枚だけ『1999年の夏休み』の則夫を描いたイラストを載せてしまいました。好きなんだから、しょうがない)
皆さん、こんばんは!
今、このblogは大分県の実家で書いています。何故、実家なのか。それは年末だから。
そう。2018年も、もうすぐ終わってしまいます。新しい環境に引っ越し(とは言っても以前の場所から車で10分ほど)、新しい職場で奮闘し、色々あったんだなぁと思わされる一年でした。
そんな2018年に観た映画たちの中で、どんな作品が心に残ったのでしょうか。思い出しながら、この文章を書いていこうと思います。
本当は2018年に公開された新作を対象とするのが普通なのでしょうが、となると俄然観た本数がガクッと減ってしまう無精者でして……
旧作のリバイバル(デジタルリマスター版など)も、範囲に含めます!
そして今回は、一つ一つの文章が長くなってしまう可能性大なので、2回に分けて投稿します。
あらすじも長くなること必至ですので、端折ります。
では、さっそく10位から振り返ってみましょう。
10位 『ラスト・ワルツ』(1978 マーティン・スコセッシ)
公開40周年を記念してのデジタル・リマスター版という事で、「ラスト・ワルツ者」である僕は勿論観に行きました。
実は以前、吉祥寺バウスシアターが閉館する際に開催された「ラストバウス爆音上映」で、この映画もラインナップに入っていたのです。
しかし日程的に観る事が叶わず……(その時観た爆音映画は、デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』(1974)と石井聰亙の『シャッフル』(1981)『半分人間 アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン』(1985)でした。ロック!)
何年か後に、その時の雪辱を果たす事が出来ました。
ザ・バンドの解散コンサートを撮っただけの音楽ドキュメンタリー映画なのですが、この映画の持つ凄みはどうしたことでしょう。
アメリカに数多くいるバンドの内の一つが解散するというだけなのに、彼らの歌っている様子、そしてインタビューを観ていると、まるでアメリカの音楽の歴史に幕が閉じられたような……
我ながら大袈裟だなぁと思いつつも、本当にそう思ってしまいます。
とは言え、ザ・バンドよりも格好良いのはゲストで来ているジョニ・ミッチェルで、ザ・バンドよりもオイシイ役なのはトリを飾ったボブ・ディランだと毎度毎度思うのですが!
9位 『早春』(1971 イエジー・スコリモフスキ)
これまたリマスター版によるリバイバル上映です。
約10年前にWOWOWで録画したDVD-R(汚い画質で、しかもスタンダード・サイズ)を大事に持っていた僕ですから、勿論行きました。
鮮やかな画面のおかげで、まるで別の映画を観ているような、否、初見のような気持ちで楽しみました。
年上のお姉さんスージーを想う主人公マイクの心理は、同じ男としてよく分かります。
犯罪スレスレ(と言うか時々シャレにならない)の行為をしてしまうその純情すぎる純情!
恋は盲目!
スコリモフスキの映画の人物たちって、ホントいつも盲目です。
所々に映える鮮烈な赤が、本作の世界観に超現実感を生み出しており、この点においても、彼の持っている映画感覚というのは凄いなぁと惚れ惚れしてしまいます。
ちょっとしたスパイス(小道具、美術、視点の変化)を加えるだけで映画の世界観はグッと拡がるので、面白いものですね。
8位 『きみの鳥はうたえる』(2018 三宅唱)
佐藤泰志の小説はここ数年で何作か映画化となってきましたが、最も早く映画化された熊切和嘉監督の『海炭市叙景』(2010)を除いて何れも酷い映画化だな…… と観たのを後悔することしきりでした。そこにきて今回の『きみ鳥』です。
濱口監督と同じように、彼の以前の作品(『Playback』(2012)です)には世間の評判ほどノリきれなかった過去もあったため、今回はどうかなぁとだいぶ不安だったのですが、杞憂に終わりました。
予想に反して、良い青春映画でした。
映画らしく盛り上げるための妙な改変(これもハッキリ言ってお笑いですが)もなく、主人公たちが体験した、ずっと流れているかのような明るくも気怠い時間を上手く掴んでいたように思います。
メジャーな映画では初監督となる(はずの)三宅監督ですが気張っている様子もなく、実に自然体で撮られているように感じられました。
「現場の雰囲気が見える映画」と言ったら良いでしょうか。
7位 『スリー・ビルボード』(2017 マーティン・マクドナー)
何故これを観に行ったのかなと思い返すと、「評判が良かったから」とか「ウディ・ハレルソンが出てたから」とかしか思い出せないのですが、今さら理由はどうだっていいのです。観れたことが大事。
これも良かったです。アメリカの抱える悪、それに拮抗する善を真っ向から描いた映画で、演者の力演、それを逃すまいとするカメラががっぷりと組み合った、力作と言えるでしょう。
コーエン兄弟の『ファーゴ』(1996)の時は好きになれなかったフランシス・マクド―マンドですが、本作の彼女は良かったですねぇ!
しかし彼女以上に素晴らしかったのは、サム・ロックウェルでした。やる気無しの本当にダメな警官の典型なのかと思わせておいて、徐々に明かされていく彼なりの正義、信念…… この点においてはウディ・ハレルソンの役柄も同じなのですが、彼らの心情をきちんと追いかけていたのも、この映画が評価された要因の一つでしょう。
こういう映画を作れるところに、アメリカの懐の深さを感じてしまうのです……
6位 『なみのおと』(2011 酒井耕・濱口竜介)
震災直後に作られた、「東北記録映画三部作」の第一部です。
本作の存在自体は知っていたものの、「濱口監督のだし……」という今では信じられない理由で長いこと観ていなかった作品でした。
しかし、『寝ても覚めても』公開記念なのか、(京都の出町柳に昨年12月に出来た)出町座で、この東北三部作が特集されると言うので、観てきました。ビックリしました……
大袈裟な物言いですが、ドキュメンタリーの新しい、そして自分の思うドキュメンタリー映画の最も理想的な形だと思いました。
この映画の構成は簡単なものです。3.11の際に震災に遭われた方々を向かい合わせ、各々のその時の記憶を対話させるというスタイル。
したがって、この映画には津波で押し流される家々や、地震で崩れ去るビル群といった映像は一切流れません。
画面に映るのは、2011年の3月11日を思い出し、相手にその時の状況、心情を伝える2人の人間が映るだけ。
相手=スクリーンの向こうにいる観客に対し向けられる「伝える」という意識。
しかも「各々が相手の目を見て話しているんですよ」というのを示すために、劇映画のようにいちいち切り返しをしているんです!
ドキュメンタリーでそんな事をすれば絶対面倒くさいに決まっているのに、わざわざそれをするという大胆不敵さ、潔さ!
『寝ても覚めても』の時にも感じた「視線に対する律義さ」は、この東北三部作で磨いていったのかもしれません。
ところで…… 本作につきものの「津波」というキーワードは、僕の故郷である大分県にも、これから絶対に必要なキーワードになると思われます。
(南海トラフ地震の事です)
その事をより考えるためにも、そしてドキュメンタリー映画の新たな豊かさを再認識するためにも、これら「東北記録映画三部作」のDVD化、Blu-ray化を強く望むものです。
10位から6位を、ざっと振り返ってみました。
拙い感想になってしまい、我ながら恥ずかしいと言うか申し訳ないと言うか……
これを読んで「この映画、観てみようか」と思って下さる方がいたら、本当に有難い。
そんな反省しきりの僕ですが、明日は5位から1位を振り返りますよ!
イラスト:城間典子(映画館をテーマにしたイラストたちです。実はだいぶ前に描かれたイラストなのですが、今回使わせてもらう事となりました。)
こっ恥ずかしいタイトルで始まった「怒涛の4連発投稿」第4弾、つまり最後の投稿です。
いや~、恥ずかしいタイトルなんて言っときながら
「フフフ、小説のタイトルとかにありそうやな……」とも思ってしまっているのが、輪をかけて恥ずかしい限り。
まぁ、僕なりの茶目っ気という事でひとつ。
思えば今回の連続投稿、『1999年の夏休み』『鬼火』そして『マイキー&ニッキー』と、どれも友情がテーマに絡んでいるのですよ。
偶然にしては出来過ぎている…… かと言って、狙ったワケでもないんですよ。言い訳がましいなぁ、我ながら。
秋と言えばハードボイルドな季節なので、偏愛しているこの映画を今回紹介しようと思い立ったワケです。
『マイキー&ニッキー』(1976 監督・脚本:エレイン・メイ)
まだ大学1回生だった2011年、今にして思えば、一番映画を観ていた頃だったかもしれません。←ホントか?
京都には数多くのレンタルビデオ店があり、ビデオ1やビデオ・イン・アメリカ(白梅町店も、下鴨店ももう無い……)などのおかげで、
ゴダールやタルコフスキー、アキ・カウリスマキ、レオス・カラックス、TSUTAYAでは並ばないような数多くのマニアックな邦画たちなどを一気に観ていました。
そんな中に、ジョン・カサヴェテスの映画もありました。
それまでカサヴェテスの名前を意識したことはなく、彼の事を知ってから
「ああ、『ローズマリーの赤ちゃん』の旦那さんだった人か! 『特攻大作戦』のやたら反抗的だったヤツか!」
と分かるようになったくらいでして。
そんな、「俳優カサヴェテス」が撮った映画ってどんなものだろうと思い『こわれゆく女』『オープニング・ナイト』を観て、どえらい衝撃を受けました。
こんなにパワフルで、ガツンと来る映画を撮っていた人やったなんて!
しかも調べてみると、俳優としても評価されているカサヴェテスですが、「インディペンデント映画界の父」なんて言われていたと書かれているではありませんか!
そんなに凄い人やったんか…… 唖然茫然。これは他のも観なくては!
彼の映画を追いかけていたそんな頃に、京都みなみ会館で『マイキー&ニッキー』の予告編を観たのでした。
主演はジョン・カサヴェテスと、彼の親友でありカサヴェテス組の常連であり、『刑事コロンボ』でお馴染みのピーター・フォーク。
予告編を観る限り、二人が夜の街を駆けまわるという筋書きらしい。
そして、何かよく分からんけど格好いい!
と言うか、二人が主演なら観ないワケにはイカンやろ! といった具合に、楽しみに待っていました。さて、どんな映画だったかと言うと……
ニッキー(演:ジョン・カサヴェテス)は組織に切り捨てられ、追われる身となっていた。
マイキー(演:ピーター・フォーク)はニッキーと同じ組織に属し、彼を売るようにに命じられていた。
命令を守るのか、親友を救うのか、マイキーは悩んでいた。
彼らは、夜の街を駆け始めた……
一言で言えば、「中年ふたりが逃げながらも、くっちゃべり続ける映画」です。
身も蓋もない紹介の仕方ですね。
いわゆる「ギャング映画」のジャンルに分けられる映画なのでしょうが、そんなジャンル分けは無意味でしょう。
僕にとっては、これは「友情についての映画」であり、「ジョン・カサヴェテスとピーター・フォークという二人の名優の競演を味わい尽くす映画」だったりします。
(だからと言って、ファン受けするだけの映画かと言われたら「違うよ」と言いたい)
ニッキーが身を隠しているホテルからマイキーを呼びつけるシーンから始まるのですが、しょっぱなからニッキーはただ者ではなさそうな雰囲気、言動を観客に見せつけてきます。
自分から呼んでおいて、マイキーをドアの前でひたすら待たせたり、ようやく開けたかと思えば手にしている銃を向けるなど、彼の混乱っぷりにヒヤヒヤさせられます。
生きるか死ぬかの瀬戸際だから、こんなに疑り深かったりしてるのかな、と考えるものの、展開が進むにつれて、どうもニッキーは昔からマイキーの頭痛の種のようだと分かってきます。
そして、そんな大変な友人を持っていても大切な友人としてずっと一緒にいる、マイキーの優しさも。
狙撃されるのは嫌だと言って上着の交換をしたり、酒場に行けばカップルに絡み、映画館に行こうと言い出し、バスの中で急に「お袋の墓参りだ!」と決めて本当に赴いたり……
狙われているとは思えないくらいハチャメチャに動き回るニッキー、それに渋々ながら同行している(同時に、心の中では葛藤を繰り返す)マイキー。
息苦しいホテルの部屋を出たニッキーは、まるで水を得た魚。何とも楽しそうではあ~りませんか。
しかし、追手は確実に存在します。
刺客は太っちょの殺し屋(演:ネッド・ビーティ)です。
人懐っこそうな見た目とは裏腹に、デキる奴オーラがプンプン。ニッキーには、思い入れも無いですし。
とは言え、舞台は夜の都会のド真ん中。あと一歩というところで逃したり、なかなかチャンスに恵まれませんが。
バスの中、ニッキーが煙草を吸っています。オバチャンに注意されても知らん顔。アッカンベーてな具合。
それまで何とかニッキーをなだめたりリードしようとしていたマイキーが、ここではニッキーを「しょうがないなぁ」といった顔で見つめています。
きっと、ずっとこんな感じで彼を見てきたのでしょう。
ニッキーの母親が眠っている墓場で盛り上がる、子供の頃の話。
ヤクザな世界に生きる「悪ガキ精神を持ったままの大人たち」を描いた『エグザイル/絆』(2006)や『狼は天使の匂い』(1972)のように、二人っきりだと昔の姿に戻れるのです。
社会や組織のしがらみなどを気にせずにはしゃぎ回った、かつての自分たちに。
でも、そんな時間はあっという間。ニッキーが愛人の家を訪ねる辺りから、雲行きが怪しくなっていきます。
自分と愛人のイチャイチャぶりを見せつけたり(愛人は「マイキーがいるじゃないの……」と言うのですが、ニッキーはお構いなし)してくるので、マイキーはだんだんウンザリしてきます。
愛人宅を出た後、ふとした口論からニッキーは、マイキーの大事な腕時計を壊してしまいます。それは、死んだ父親の形見でした。
ニッキーは相変わらず「修理すりゃ大丈夫だろ」みたいな軽いノリです。マイキーはそうはいきません。
溜まっていたものが、ついに弾けてしまいました。
「もう知らん!」
マイキーは、ニッキーを置いて去ってしまいます。
果たして、ニッキーはどうなるのか…… それは観ていただきたいので秘密。
「友情」というヤツが持っている空気感と言いましょうか、その微妙なラインを、この映画は実に見事に描いています。
正反対な性格の彼らが、何故こうもずっと付き合っていられるのか。
彼らが過ごす、グダグダとした時間のあるある感。
長い友情にヒビが入る瞬間のあっけなさ。
ヒビが入ってしまってからの彼らの姿は、銃撃戦で誰かが死んだりするよりもよっぽど悲しく、やるせない。
僕らは、確かにこの時間たちを知っています。
たった一晩の物語です。
カサヴェテスもフォークも、既にこの世にはいません。
しかし、僕らがこれから何度も迎えるかもしれない一晩を刻んだ、永遠に輝き続ける映画です。
イラスト:城間典子
僕の誕生日は10月2日、つまり秋のど真ん中。それもあってか、秋が一番好きな季節です。
カラッとした空気感が実に過ごしやすいし、芸術の秋と言われるだけあって、読書にもってこいの季節だし。
しかし同時に、寂しさの募る季節、という思いもあります。
空気感がそう思わせるのでしょうか。そしてそれ故でしょうか、ピアノの音が恋しくなってきます。
今年は何故か、特にピアノの曲が聴きたくなったので、手元にあるピアノアルバムを引っ張り出しては聴くのですが、
どうもジャズのアルバムだと違うようです。
『1999年の夏休み』のおかげで聴くようになった、中村由利子さんのアルバムは…… 良いですねぇ、ピッタリきますねぇ!
要するに、どこか湿り気と言うか、感傷的な雰囲気のピアノの音を求めているようなのです。
そしてもう一人、エリック・サティ。
彼の作り出したピアノの曲たちは、今の僕に深く沁みてきます。
一聴しただけだと暗いようなイメージを持ってしまうサティ。
しかし何度も聴いていくうちにその儚い音の調べが、自分に寄り添ってくれているような優しさを感じる事が出来ます。
いつでもサティの音楽に浸るため、高橋悠治氏によるサティのCDを購入しちゃいました。
さて、そんな中でお送りする「怒涛の4連発投稿」第3弾は
そのサティの曲が全編に渡って流れるフランス映画『鬼火』(1963)をご紹介します。
監督は『死刑台のエレベーター』(1958)で鮮烈な長編映画監督デビューを飾った、ルイ・マルです。
ニューヨークでの結婚生活に破れ、アルコール中毒となり、ベルサイユの病院で精神療養を受けている男アラン(演:モーリス・ロネ)。
彼は7月23日に自殺をしようと決めていた。今の彼にとって、人生は何もない空っぽの入れ物だ。
自殺するまでの48時間、彼はかつて青年時代を過ごしたパリへ赴き、街を歩く。そして、昔の友人たちを訪ねてゆく……
モーリス・ロネと言えば、『死刑台のエレベーター』で主人公ジャンヌ・モローの為に殺人を犯し、ふとしたミスでエレベーターに閉じ込められてしまう不倫相手を演じたり、『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンによりなりすまし殺人の被害者となってしまった金持ち息子の役などが有名な、ここに書いただけでも「受難の役が多いなぁ」という印象を抱いてしまう役者です。
本作での全てを投げ出しているような虚ろな眼差しは、凄く説得力があります。
病院はかつて貴族が住んでいたであろう館で、立派な個室が与えられています。
アランの部屋にあるのは、かつて共に過ごした妻の写真たち、マリリン・モンローや何処かの少年が死んだ記事の切り抜き、フィッツジェラルドの本、こけし、そして拳銃。
彼は常に死に囲まれており、先生が部屋を訪ねて「人生はいいものだよ」と言っても、上の空。
そんな彼が自殺を決意し、最後に友人たちを訪ねるわけですが、人生に落胆し、過去にすがる事でしか生きられないアランとは違い、
友人たちは結婚したり、新たなグループを作ったり、政治活動にのめり込んでいたりと、新たな生活を送っています。
アランは、そんな彼らの姿に愕然とし、ますます自分だけの孤独と言う名の硬い殻の中に入り込んでゆきます。
結婚した友人に対しては、彼が送っている「平凡な生活」に嫌気が差す。
麻薬という道具で日々を怠惰に、しかし希望だけは持って生きている仲間に対しては、その精神を理解する事すら拒む。
政治活動をしている友人たちの中に入って会話をしても、心は満たされない。
雨に降られながら訪れた友人の晩餐会では、自分が会話のネタにされて鬱々としてしまう。かつてアランが好きだった女性が優しく
接しても、もうアランにはその優しさは届かないのです。
終盤、彼は話し相手から「君は人を愛しているのか?」と問われ、
「僕は愛されたい。僕が愛するように」と答えます。
エゴだよそれは! と某ロボットアニメの主人公なら言いそうです。と言うか、僕も言いたい。
しかし、それが彼の考える愛であり、人生の理想なのです。
すごくワガママだなぁとも思うのですが、そんな気持ち、誰にだって少しはあるのではないでしょうか。僕にだってあります。
周りの人たちが自分の思うように接してくれなくて、自分以外の世界に対して常に怒り、絶望し、生きるのヤダナーと思う時。
そんな時、ある人は音楽を聴いたり、身体を動かしたりしてストレスを発散させるかもしれません。
または、その怒りのエネルギーで何かを創り出すかもしれません。
犯罪に走るかもしれません。
これがエヴ○ンゲリ○ンの主人公だと、「みんな死んじゃえ」となってしまう。
閉じこもり続けて、最後は「自分」を世界に突きつけようとするんですね。
アランは自殺という形で、世界に対し「自分」を刻み込もうとするのです。
それはあまりに哀しい事です。
自殺する事で世界に楔を打ち込んだと自殺する側(アラン)は思っていても、いずれ時が経ち、皆から忘れ去られてゆくのが、世の常なのですから。
中盤、アランはカフェの椅子から、道行く人々を眺めます。
楽しげに歩いてゆく人。考え事をしているような人。恋人たち。様々な人が、アランの目の前を通り過ぎていきます。そんな彼らの姿も、彼には虚しく映ります。何の感慨も、与えてくれません。
このシーン中、サティの『グノシエンヌ』が流れています。
北野武の監督デビュー作、『その男、凶暴につき』でも印象的な使われ方をした曲ですが、ここでは、アランの抱える虚無感を雄弁に物語っています。
サティの曲の中で特に有名な『ジムノペディ』『グノシエンヌ』が映画の節々で実に効果的に使われているので、そこも要チェックポイントですよ。
『鬼火』というこの映画は、暗く、寂しく、静かな映画です。
しかし、何かの折に観返してほしい、観返したい映画の一つです。
最初観た時はアランの心理について行けないと感じられても、次に観た時はまた違う風に見えてくるかもしれません。
イラスト:城間典子