2018年12月31日月曜日

第17回 2018年を振り返ってみようベスト その2

お待たせしました!
私的2018年ベスト10、5位から1位の発表です!
かっとばしていきましょう!

5位 『モアナ 南海の歓喜』(1926,1980,2014 ロバート・フラハティ(共同監督:フランシス・フラハティ/モニカ・フラハティ))

「ドキュメンタリー映画の父」と呼ばれている(確かそうだったはず)ロバート・フラハティ。
以前観た『極北のナヌーク』(1922)が予想以上の面白さだったので、本作も期待して観に行きました。
結果、素晴らしかった。
本作は1926年の段階ではサイレント映画として公開され、その後1980年に娘のモニカが撮影した島に赴き、島の生活の音を録音しました。
こうして80年にサウンド版『モアナ』が完成し、2014年、今度は2K修復による美しい画面も獲得。
今回観れたのは、その美しい画面と音を刻み込んだ決定版『モアナ』でした。
何とまぁ豊かな映画でしょう。
後から足された島の音という音は、26年の撮影当時に録ってきたとしか思えないほど自然で、とても生々しい。
繊細な音の設計が本当にお見事。
カメラワークも面白く、けっこう引き気味の画が多いです。広大な大自然の中で暮らしているというのが一目で分かります。
ベタではありますが、こういう基本を押さえた演出って本当に大事だと思います。
島の少年がヤシの木に登るシーンがあるのですが、ここは面白いです。普通なら画面いっぱいにヤシの木の全貌を見せて、そこを登っている少年が小さく映るといった演出をする事が多いかもしれませんが、
この映画では少年が木に登っている→木に登っているから少年が画面から消える→消えた時にカメラはパンをして少年を追いかける。少年は登り続けている→これの繰り返しです。
木がどれほどの大きさなのか想像力を掻き立てられますし、ゆっくりゆっくりしたテンポでカメラが追いかけるので、妙な笑いがこみ上げてくる、ユーモラスなシーンでもあります。この演出の自由度!
ドキュメンタリー黎明期だからこそ出来た遊び心なのかもしれません。



4位 『若おかみは小学生!』(2018 高坂希太郎)

これも大当たりの映画でした。そもそも、あの高坂監督(『茄子』シリーズは傑作!)の新作なんだから面白くないワケがない!
と信じて出かけたのが良かった。94分の中におっこの成長っぷりが、周りの人々がおっこによって癒され、変わっていく様が丁寧に描かれており、何より、おっこが可愛かった!
キャラクターデザインを見た時には「うっ……」となったのですが、それでも高坂監督を信じて良かった。
動くことによって、おっこの可愛さが引き立つんです!

小林星蘭ちゃんも、ハマり役でしたね。
そうそうこの映画、やっくんこと薬丸裕英さんやホラン千秋さん、はてはバナナマン設楽さんなどの芸能人が多くキャスティングされており、観る前は大丈夫かなぁ、芸能人起用かぁと思っていました。

しかし、皆さん良かった!
上手いか下手かは各々が判断する事として、皆さん見事にハマっていました。
特にホラン千秋さん。
さすが、かつて『魔法戦隊マジレンジャー』(2005)に出ていた(悪の幹部側で)だけの事はあるなぁ。そこでアフレコ鍛えられたんだろうなぁ。と、感慨深く観ていました……

良かった尽くしの良い映画でした。
3位 『寝ても覚めても』(2018 濱口竜介)

正直言って、これまでの濱口映画(『PASSION』(2008)など)は「ほー」と思う事はあっても好きになれないなぁと思っていたのですが、本作にはビックリしました。
この人の映画、ここまで面白かったっけ!? と疑うほどに。
長回しの多用で人物の動きをダラダラと追い続ける今の日本映画において、ここまで視線の事を律義に考える人がいたなんて! と感激してしまいましたよ。
演者の方々も、背伸びしてない感じで好印象。東出昌大さんは、以前から好きな役者さんでしたが、本作でより好きになりました。

これはいよいよ、あの『ハッピーアワー』(2015)を観なきゃだゾ……
はい、映画ファンを称したモグリが此処にいます。すみません。



2位 『ボーダーライン』(2015 ドゥニ・ヴィルヌーヴ)

開館一周年を迎えた、京都は出町柳の映画館「出町座」で『ボーダーライン ソルジャーズ・デイ』(2018)が公開されるというので、前作も一緒に上映しておりました。
Blu-rayを積ん見状態にしていたので、「どうせ観るなら映画館が良いな」と思って出向いたら大当たりでした。
映画館で観てこそ映える作品でしたね!
もっとアクションしている映画かと思っていましたが、ドゥニ監督の作家印が見事に刻まれた、ヒリヒリする人間ドラマの傑作でした。
出口の見えない地獄をひたすら進む主人公たちにシンクロするヨハン・ヨハンソンの不穏な音楽、引きの画で圧倒的な絶望と説得力を生み出すロジャー・ディーキンスのカメラ。
そして徹底的にドライな目線で、まるで神の如き視線でもって人物たちを見つめるドゥニ監督の演出…… いやぁ、凄かった。




さて、栄光の第1位は……

 1位 『1999年の夏休み』(1988 金子修介)

有無も言わせぬ、ぶっちぎりの1位です。
この映画を観れたからこそ、中村由利子さんを知り、ヘルマン・ヘッセを買い、
竹宮惠子さんの『風と木の詩』を読もうとしているのですから!
(皆さん、「そこは萩尾望都さんじゃねーの」という突っ込みは無しで!
萩尾さんよりも竹宮さんの絵の方が個人的には好きでして……)


そう。以前このblogで本作を紹介した後に、DVDを手に入れたのです。
レターボックス・サイズかつあまり綺麗な画質ではないのですが、いつでも4人に会えるワケです。
加えてこのDVD、本編音声だけでなく、中村由利子さんのBGM(主に劇中で使われた『風の鏡』からの音楽。
しかし、他のアルバムの曲も豊富に収録)が流れる音声トラックもありまして…… 
なので、BGMならぬBGVとしても楽しんでいます。ハイ、幸せです。

しかし、定期的に観返してしまう度に「則夫、かわいいよ則夫」状態になってしまうのは流石にマズい気がしている今日この頃です。



さて。2018年に劇場で観た映画たちを振り返ってみました。
旧作の割合が本当に多いなぁ……
懐に余裕がないと、どうしたって「観たかったあの映画」とか「本邦初上映」とかに惹かれてしまうんですよ。
ところで、今回のランキングに入れられなかった作品たちの多かったこと!


『暗殺のオペラ』(1970 ベルナルド・ベルトルッチ)
『動くな、死ね、甦れ!』(1989 ヴィターリー・カネフスキー)
『恐怖の報酬』(1977 ウィリアム・フリードキン)


といった、何れも観たかった幻の映画たちが、美しいリマスター版で映画館で観られた事も大収穫でしたし、

『犬ヶ島』(2018 ウェス・アンダーソン)
『ウインド・リバー』(2017 テイラー・シェリダン)
『希望のかなた』(2017 アキ・カウリスマキ)
『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ★アディオス』(2017 ルーシー・ウォーカー)
『ライオンは今夜死ぬ』(2017 諏訪敦彦)
『ワンダーストラック』(2017 トッド・ヘインズ)


などの最新傑作が沢山あって、ランク付けに困りました。


皆さんは、どんな映画を映画館でご覧になりましたか?
また来年も、無精者なりに、いち映画ファンとして地道に様々な映画を観ていこうと思います。
それでは、よいお年を!

イラスト:城間典子
(昨日に引き続き、映画館にまつわるイラストたちです。あ、1枚だけ『1999年の夏休み』の則夫を描いたイラストを載せてしまいました。好きなんだから、しょうがない)

2018年12月30日日曜日

第16回 2018年を振り返ってみようベスト その1

皆さん、こんばんは!
今、このblogは大分県の実家で書いています。何故、実家なのか。それは年末だから。
そう。2018年も、もうすぐ終わってしまいます。
新しい環境に引っ越し(とは言っても以前の場所から車で10分ほど)、新しい職場で奮闘し、色々あったんだなぁと思わされる一年でした。
そんな2018年に観た映画たちの中で、どんな作品が心に残ったのでしょうか。思い出しながら、この文章を書いていこうと思います。

本当は2018年に公開された新作を対象とするのが普通なのでしょうが、となると俄然観た本数がガクッと減ってしまう無精者でして……
旧作のリバイバル(デジタルリマスター版など)も、範囲に含めます!
そして今回は、一つ一つの文章が長くなってしまう可能性大なので、2回に分けて投稿します。
あらすじも長くなること必至ですので、端折ります。

では、さっそく10位から振り返ってみましょう。
 10位 『ラスト・ワルツ』(1978 マーティン・スコセッシ)

公開40周年を記念してのデジタル・リマスター版という事で、「ラスト・ワルツ者」である僕は勿論観に行きました。
実は以前、吉祥寺バウスシアターが閉館する際に開催された「ラストバウス爆音上映」で、この映画もラインナップに入っていたのです。
しかし日程的に観る事が叶わず……(その時観た爆音映画は、デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』(1974)と石井聰亙の『シャッフル』(1981)『半分人間 アインシュテュルツェンデ・ノイバウテン』(1985)でした。ロック!)
何年か後に、その時の雪辱を果たす事が出来ました。
ザ・バンドの解散コンサートを撮っただけの音楽ドキュメンタリー映画なのですが、この映画の持つ凄みはどうしたことでしょう。
アメリカに数多くいるバンドの内の一つが解散するというだけなのに、彼らの歌っている様子、そしてインタビューを観ていると、まるでアメリカの音楽の歴史に幕が閉じられたような……
我ながら大袈裟だなぁと思いつつも、本当にそう思ってしまいます。

とは言え、ザ・バンドよりも格好良いのはゲストで来ているジョニ・ミッチェルで、ザ・バンドよりもオイシイ役なのはトリを飾ったボブ・ディランだと毎度毎度思うのですが!


9位 『早春』(1971 イエジー・スコリモフスキ)

これまたリマスター版によるリバイバル上映です。
約10年前にWOWOWで録画したDVD-R(汚い画質で、しかもスタンダード・サイズ)を大事に持っていた僕ですから、勿論行きました。
鮮やかな画面のおかげで、まるで別の映画を観ているような、否、初見のような気持ちで楽しみました。
年上のお姉さんスージーを想う主人公マイクの心理は、同じ男としてよく分かります。
犯罪スレスレ(と言うか時々シャレにならない)の行為をしてしまうその純情すぎる純情!

恋は盲目!
スコリモフスキの映画の人物たちって、ホントいつも盲目です。
所々に映える鮮烈な赤が、本作の世界観に超現実感を生み出しており、この点においても、彼の持っている映画感覚というのは凄いなぁと惚れ惚れしてしまいます。
ちょっとしたスパイス(小道具、美術、視点の変化)を加えるだけで映画の世界観はグッと拡がるので、面白いものですね。

8位 『きみの鳥はうたえる』(2018 三宅唱)

佐藤泰志の小説はここ数年で何作か映画化となってきましたが、最も早く映画化された熊切和嘉監督の『海炭市叙景』(2010)を除いて何れも酷い映画化だな…… と観たのを後悔することしきりでした。そこにきて今回の『きみ鳥』です。
濱口監督と同じように、彼の以前の作品(『Playback』(2012)です)には世間の評判ほどノリきれなかった過去もあったため、今回はどうかなぁとだいぶ不安だったのですが、杞憂に終わりました。

予想に反して、良い青春映画でした。
映画らしく盛り上げるための妙な改変(これもハッキリ言ってお笑いですが)もなく、主人公たちが体験した、ずっと流れているかのような明るくも気怠い時間を上手く掴んでいたように思います。
メジャーな映画では初監督となる(はずの)三宅監督ですが気張っている様子もなく、実に自然体で撮られているように感じられました。
「現場の雰囲気が見える映画」と言ったら良いでしょうか。



7位 『スリー・ビルボード』(2017 マーティン・マクドナー)

何故これを観に行ったのかなと思い返すと、「評判が良かったから」とか「ウディ・ハレルソンが出てたから」とかしか思い出せないのですが、今さら理由はどうだっていいのです。観れたことが大事。
これも良かったです。アメリカの抱える悪、それに拮抗する善を真っ向から描いた映画で、演者の力演、それを逃すまいとするカメラががっぷりと組み合った、力作と言えるでしょう。
コーエン兄弟の『ファーゴ』(1996)の時は好きになれなかったフランシス・マクド―マンドですが、本作の彼女は良かったですねぇ!
しかし彼女以上に素晴らしかったのは、サム・ロックウェルでした。やる気無しの本当にダメな警官の典型なのかと思わせておいて、徐々に明かされていく彼なりの正義、信念…… この点においてはウディ・ハレルソンの役柄も同じなのですが、彼らの心情をきちんと追いかけていたのも、この映画が評価された要因の一つでしょう。
こういう映画を作れるところに、アメリカの懐の深さを感じてしまうのです……

6位 『なみのおと』(2011 酒井耕・濱口竜介)

震災直後に作られた、「東北記録映画三部作」の第一部です。

本作の存在自体は知っていたものの、「濱口監督のだし……」という今では信じられない理由で長いこと観ていなかった作品でした。
しかし、『寝ても覚めても』公開記念なのか、(京都の出町柳に昨年12月に出来た)出町座で、この東北三部作が特集されると言うので、観てきました。ビックリしました……

大袈裟な物言いですが、ドキュメンタリーの新しい、そして自分の思うドキュメンタリー映画の最も理想的な形だと思いました。
この映画の構成は簡単なものです。3.11の際に震災に遭われた方々を向かい合わせ、各々のその時の記憶を対話させるというスタイル。
したがって、この映画には津波で押し流される家々や、地震で崩れ去るビル群といった映像は一切流れません。
画面に映るのは、2011年の3月11日を思い出し、相手にその時の状況、心情を伝える2人の人間が映るだけ。
相手=スクリーンの向こうにいる観客に対し向けられる「伝える」という意識。
しかも「各々が相手の目を見て話しているんですよ」というのを示すために、劇映画のようにいちいち切り返しをしているんです!
ドキュメンタリーでそんな事をすれば絶対面倒くさいに決まっているのに、わざわざそれをするという大胆不敵さ、潔さ!
『寝ても覚めても』の時にも感じた「視線に対する律義さ」は、この東北三部作で磨いていったのかもしれません。

ところで…… 本作につきものの「津波」というキーワードは、僕の故郷である大分県にも、これから絶対に必要なキーワードになると思われます。
(南海トラフ地震の事です)
その事をより考えるためにも、そしてドキュメンタリー映画の新たな豊かさを再認識するためにも、これら「東北記録映画三部作」のDVD化、Blu-ray化を強く望むものです。




10位から6位を、ざっと振り返ってみました。
拙い感想になってしまい、我ながら恥ずかしいと言うか申し訳ないと言うか……
これを読んで「この映画、観てみようか」と思って下さる方がいたら、本当に有難い。
そんな反省しきりの僕ですが、明日は5位から1位を振り返りますよ!



イラスト:城間典子(映画館をテーマにしたイラストたちです。実はだいぶ前に描かれたイラストなのですが、今回使わせてもらう事となりました。)

2018年10月30日火曜日

第15回 『マイキー&ニッキー』の儚さ、それは夜明けの匂い。

こっ恥ずかしいタイトルで始まった「怒涛の4連発投稿」第4弾、つまり最後の投稿です。
いや~、恥ずかしいタイトルなんて言っときながら
「フフフ、小説のタイトルとかにありそうやな……」とも思ってしまっているのが、輪をかけて恥ずかしい限り。
まぁ、僕なりの茶目っ気という事でひとつ。

思えば今回の連続投稿、『1999年の夏休み』『鬼火』そして『マイキー&ニッキー』と、どれも友情がテーマに絡んでいるのですよ。
偶然にしては出来過ぎている…… かと言って、狙ったワケでもないんですよ。言い訳がましいなぁ、我ながら。
秋と言えばハードボイルドな季節なので、偏愛しているこの映画を今回紹介しようと思い立ったワケです。



『マイキー&ニッキー』(1976 監督・脚本:エレイン・メイ)


まだ大学1回生だった2011年、今にして思えば、一番映画を観ていた頃だったかもしれません。←ホントか?
京都には数多くのレンタルビデオ店があり、ビデオ1やビデオ・イン・アメリカ(白梅町店も、下鴨店ももう無い……)などのおかげで、
ゴダールやタルコフスキー、アキ・カウリスマキ、レオス・カラックス、TSUTAYAでは並ばないような数多くのマニアックな邦画たちなどを一気に観ていました。
そんな中に、ジョン・カサヴェテスの映画もありました。
それまでカサヴェテスの名前を意識したことはなく、彼の事を知ってから
「ああ、『ローズマリーの赤ちゃん』の旦那さんだった人か! 『特攻大作戦』のやたら反抗的だったヤツか!」
と分かるようになったくらいでして。
そんな、「俳優カサヴェテス」が撮った映画ってどんなものだろうと思い『こわれゆく女』『オープニング・ナイト』を観て、どえらい衝撃を受けました。

こんなにパワフルで、ガツンと来る映画を撮っていた人やったなんて!
しかも調べてみると、俳優としても評価されているカサヴェテスですが、「インディペンデント映画界の父」なんて言われていたと書かれているではありませんか!
そんなに凄い人やったんか…… 唖然茫然。これは他のも観なくては!

彼の映画を追いかけていたそんな頃に、京都みなみ会館で『マイキー&ニッキー』の予告編を観たのでした。
主演はジョン・カサヴェテスと、彼の親友でありカサヴェテス組の常連であり、『刑事コロンボ』でお馴染みのピーター・フォーク。
予告編を観る限り、二人が夜の街を駆けまわるという筋書きらしい。

そして、何かよく分からんけど格好いい!
と言うか、二人が主演なら観ないワケにはイカンやろ! といった具合に、楽しみに待っていました。
さて、どんな映画だったかと言うと……


ニッキー(演:ジョン・カサヴェテス)は組織に切り捨てられ、追われる身となっていた。
マイキー(演:ピーター・フォーク)はニッキーと同じ組織に属し、彼を売るようにに命じられていた。
命令を守るのか、親友を救うのか、マイキーは悩んでいた。
彼らは、夜の街を駆け始めた……


一言で言えば、「中年ふたりが逃げながらも、くっちゃべり続ける映画」です。
身も蓋もない紹介の仕方ですね。
いわゆる「ギャング映画」のジャンルに分けられる映画なのでしょうが、そんなジャンル分けは無意味でしょう。
僕にとっては、これは「友情についての映画」であり、「ジョン・カサヴェテスとピーター・フォークという二人の名優の競演を味わい尽くす映画」だったりします。
(だからと言って、ファン受けするだけの映画かと言われたら「違うよ」と言いたい)



ニッキーが身を隠しているホテルからマイキーを呼びつけるシーンから始まるのですが、しょっぱなからニッキーはただ者ではなさそうな雰囲気、言動を観客に見せつけてきます。
自分から呼んでおいて、マイキーをドアの前でひたすら待たせたり、ようやく開けたかと思えば手にしている銃を向けるなど、彼の混乱っぷりにヒヤヒヤさせられます。
生きるか死ぬかの瀬戸際だから、こんなに疑り深かったりしてるのかな、と考えるものの、展開が進むにつれて、どうもニッキーは昔からマイキーの頭痛の種のようだと分かってきます。
そして、そんな大変な友人を持っていても大切な友人としてずっと一緒にいる、マイキーの優しさも。


狙撃されるのは嫌だと言って上着の交換をしたり、酒場に行けばカップルに絡み、映画館に行こうと言い出し、バスの中で急に「お袋の墓参りだ!」と決めて本当に赴いたり……
狙われているとは思えないくらいハチャメチャに動き回るニッキー、それに渋々ながら同行している(同時に、心の中では葛藤を繰り返す)マイキー。
息苦しいホテルの部屋を出たニッキーは、まるで水を得た魚。何とも楽しそうではあ~りませんか。
しかし、追手は確実に存在します。
刺客は太っちょの殺し屋(演:ネッド・ビーティ)です。
人懐っこそうな見た目とは裏腹に、デキる奴オーラがプンプン。ニッキーには、思い入れも無いですし。
とは言え、舞台は夜の都会のド真ん中。あと一歩というところで逃したり、なかなかチャンスに恵まれませんが。


バスの中、ニッキーが煙草を吸っています。オバチャンに注意されても知らん顔。アッカンベーてな具合。
それまで何とかニッキーをなだめたりリードしようとしていたマイキーが、ここではニッキーを「しょうがないなぁ」といった顔で見つめています。
きっと、ずっとこんな感じで彼を見てきたのでしょう。
ニッキーの母親が眠っている墓場で盛り上がる、子供の頃の話。
ヤクザな世界に生きる「悪ガキ精神を持ったままの大人たち」を描いた『エグザイル/絆』(2006)や『狼は天使の匂い』(1972)のように、二人っきりだと昔の姿に戻れるのです。
社会や組織のしがらみなどを気にせずにはしゃぎ回った、かつての自分たちに。



でも、そんな時間はあっという間。ニッキーが愛人の家を訪ねる辺りから、雲行きが怪しくなっていきます。
自分と愛人のイチャイチャぶりを見せつけたり(愛人は「マイキーがいるじゃないの……」と言うのですが、ニッキーはお構いなし)してくるので、マイキーはだんだんウンザリしてきます。
愛人宅を出た後、ふとした口論からニッキーは、マイキーの大事な腕時計を壊してしまいます。それは、死んだ父親の形見でした。
ニッキーは相変わらず「修理すりゃ大丈夫だろ」みたいな軽いノリです。マイキーはそうはいきません。
溜まっていたものが、ついに弾けてしまいました。
「もう知らん!」
マイキーは、ニッキーを置いて去ってしまいます。
果たして、ニッキーはどうなるのか…… それは観ていただきたいので秘密。



「友情」というヤツが持っている空気感と言いましょうか、その微妙なラインを、この映画は実に見事に描いています。
正反対な性格の彼らが、何故こうもずっと付き合っていられるのか。
彼らが過ごす、グダグダとした時間のあるある感。
長い友情にヒビが入る瞬間のあっけなさ。
ヒビが入ってしまってからの彼らの姿は、銃撃戦で誰かが死んだりするよりもよっぽど悲しく、やるせない。
僕らは、確かにこの時間たちを知っています。



たった一晩の物語です。
カサヴェテスもフォークも、既にこの世にはいません。
しかし、僕らがこれから何度も迎えるかもしれない一晩を刻んだ、永遠に輝き続ける映画です。



イラスト:城間典子

第14回 『鬼火』が消える頃に。


僕の誕生日は10月2日、つまり秋のど真ん中。それもあってか、秋が一番好きな季節です。
カラッとした空気感が実に過ごしやすいし、芸術の秋と言われるだけあって、読書にもってこいの季節だし。
しかし同時に、寂しさの募る季節、という思いもあります。
空気感がそう思わせるのでしょうか。そしてそれ故でしょうか、ピアノの音が恋しくなってきます。
今年は何故か、特にピアノの曲が聴きたくなったので、手元にあるピアノアルバムを引っ張り出しては聴くのですが、
どうもジャズのアルバムだと違うようです。
『1999年の夏休み』のおかげで聴くようになった、中村由利子さんのアルバムは…… 良いですねぇ、ピッタリきますねぇ!
要するに、どこか湿り気と言うか、感傷的な雰囲気のピアノの音を求めているようなのです。
そしてもう一人、エリック・サティ。

彼の作り出したピアノの曲たちは、今の僕に深く沁みてきます。
一聴しただけだと暗いようなイメージを持ってしまうサティ。
しかし何度も聴いていくうちにその儚い音の調べが、自分に寄り添ってくれているような優しさを感じる事が出来ます。
いつでもサティの音楽に浸るため、高橋悠治氏によるサティのCDを購入しちゃいました。


さて、そんな中でお送りする「怒涛の4連発投稿」第3弾は
そのサティの曲が全編に渡って流れるフランス映画『鬼火』(1963)をご紹介します。
監督は『死刑台のエレベーター』(1958)で鮮烈な長編映画監督デビューを飾った、ルイ・マルです。



ニューヨークでの結婚生活に破れ、アルコール中毒となり、ベルサイユの病院で精神療養を受けている男アラン(演:モーリス・ロネ)。
彼は7月23日に自殺をしようと決めていた。今の彼にとって、人生は何もない空っぽの入れ物だ。
自殺するまでの48時間、彼はかつて青年時代を過ごしたパリへ赴き、街を歩く。そして、昔の友人たちを訪ねてゆく……



モーリス・ロネと言えば、『死刑台のエレベーター』で主人公ジャンヌ・モローの為に殺人を犯し、ふとしたミスでエレベーターに閉じ込められてしまう不倫相手を演じたり、『太陽がいっぱい』でアラン・ドロンによりなりすまし殺人の被害者となってしまった金持ち息子の役などが有名な、ここに書いただけでも「受難の役が多いなぁ」という印象を抱いてしまう役者です。
本作での全てを投げ出しているような虚ろな眼差しは、凄く説得力があります。


病院はかつて貴族が住んでいたであろう館で、立派な個室が与えられています。
アランの部屋にあるのは、かつて共に過ごした妻の写真たち、マリリン・モンローや何処かの少年が死んだ記事の切り抜き、フィッツジェラルドの本、こけし、そして拳銃。
彼は常に死に囲まれており、先生が部屋を訪ねて「人生はいいものだよ」と言っても、上の空。


そんな彼が自殺を決意し、最後に友人たちを訪ねるわけですが、人生に落胆し、過去にすがる事でしか生きられないアランとは違い、
友人たちは結婚したり、新たなグループを作ったり、政治活動にのめり込んでいたりと、新たな生活を送っています。
アランは、そんな彼らの姿に愕然とし、ますます自分だけの孤独と言う名の硬い殻の中に入り込んでゆきます。
結婚した友人に対しては、彼が送っている「平凡な生活」に嫌気が差す。
麻薬という道具で日々を怠惰に、しかし希望だけは持って生きている仲間に対しては、その精神を理解する事すら拒む。
政治活動をしている友人たちの中に入って会話をしても、心は満たされない。
雨に降られながら訪れた友人の晩餐会では、自分が会話のネタにされて鬱々としてしまう。かつてアランが好きだった女性が優しく
接しても、もうアランにはその優しさは届かないのです。


終盤、彼は話し相手から「君は人を愛しているのか?」と問われ、
「僕は愛されたい。僕が愛するように」と答えます。
エゴだよそれは! と某ロボットアニメの主人公なら言いそうです。と言うか、僕も言いたい。
しかし、それが彼の考える愛であり、人生の理想なのです。
すごくワガママだなぁとも思うのですが、そんな気持ち、誰にだって少しはあるのではないでしょうか。僕にだってあります。
周りの人たちが自分の思うように接してくれなくて、自分以外の世界に対して常に怒り、絶望し、生きるのヤダナーと思う時。
そんな時、ある人は音楽を聴いたり、身体を動かしたりしてストレスを発散させるかもしれません。
または、その怒りのエネルギーで何かを創り出すかもしれません。
犯罪に走るかもしれません。
これがエヴ○ンゲリ○ンの主人公だと、「みんな死んじゃえ」となってしまう。
閉じこもり続けて、最後は「自分」を世界に突きつけようとするんですね。

アランは自殺という形で、世界に対し「自分」を刻み込もうとするのです。
それはあまりに哀しい事です。
自殺する事で世界に楔を打ち込んだと自殺する側(アラン)は思っていても、いずれ時が経ち、皆から忘れ去られてゆくのが、世の常なのですから。



中盤、アランはカフェの椅子から、道行く人々を眺めます。
楽しげに歩いてゆく人。考え事をしているような人。恋人たち。様々な人が、アランの目の前を通り過ぎていきます。そんな彼らの姿も、彼には虚しく映ります。何の感慨も、与えてくれません。
このシーン中、サティの『グノシエンヌ』が流れています。
北野武の監督デビュー作、『その男、凶暴につき』でも印象的な使われ方をした曲ですが、ここでは、アランの抱える虚無感を雄弁に物語っています。
サティの曲の中で特に有名な『ジムノペディ』『グノシエンヌ』が映画の節々で実に効果的に使われているので、そこも要チェックポイントですよ。



『鬼火』というこの映画は、暗く、寂しく、静かな映画です。
しかし、何かの折に観返してほしい、観返したい映画の一つです。
最初観た時はアランの心理について行けないと感じられても、次に観た時はまた違う風に見えてくるかもしれません。


イラスト:城間典子

2018年10月29日月曜日

第13回 『1999年の夏休み』を忘れない。

{はじめに}
今まで僕は再録記事の事もあり、文章の書き方を「である調」で書いていたのですが、これからは再録記事はなるだけそのまま、
あらすじのみを「~だ調」とし、基本的には「ですます調」で書いていこうと思います。
突然変えたくなったというワケではなくて、以前から「大した事も書いてないのにである調で書くのは、何だか論文を書いてるみたいで気取ってるなぁ」などと思っていたのです。
僕自身、映画の紹介やエッセイなどですます調の方が、すんなりと文章の中へ入っていけるのです。
肩肘張って「~なのだ、か。フムフム」となるより、気軽に読んで頂きたい。そんな思いから、文体の変更をする事となりました。
そんな新スタイルでお送りする「怒涛の4連発投稿」第2弾は……


お金も無いくせに、同じ映画を2回観に行ったのです。
まさか自分も、連続で観に行く事になるとは、観る前は考えもしませんでしたが、1回目の鑑賞の際にすっかりその物語、世界観にハマり込んでしまいました。
そして、こうも思いました。
「この映画は、これからもずっと自分にとって大切な映画になるのだ」と。
今年もすでに10月、様々な映画たちを映画館や自宅で観ましたが、ここまで思わせてくれたのはジョン・フォードの『わが谷は緑なりき』(1941)と、フレディ・M・ムーラーの『山の焚火』(1985)くらいでしょうか。
「もう一度、今度は1番前の席に座って、彼らの姿を観ておきたい」(初見の時は、前から2番目の席で、前の座席の方の頭が時おり邪魔になってしまったのです)と、観終わった時に直ぐ決めました。
その映画は1988年に作られた、『1999年の夏休み』という邦画です。
監督は、後に平成ガメラシリーズで日本映画史に名を残すこととなる、金子修介さん。
初めて自らの企画で作られた映画なのだそうです。


物語は1999年、ある全寮制の学院が舞台。山と緑に囲まれたこの場所で、少年たちは共同生活をしていた。
ある夜、悠(演:宮島依里)は崖から湖に身を投げてしまう。
そんな事件が起き、学院は夏休みを迎え、帰るあてのない少年たち3人が残った。
以前から悠が自分のことを想っていたにも関わらず、それを拒んでいたことで自責の念に駆られている少年、和彦(演;大寶智子)。
そんな和彦に深い思いやりで接する、リーダー格の直人(演:中野みゆき)。
和彦の悠に対する想いに強い嫉妬のようなものを抱いている、下級生の則夫(演:水原里絵)。
3人で過ごす夏休みが始まったかと思いきや、悠にそっくりの転入生、薫(演:宮島依里)が現れ、3人は動揺する……



この映画には、原作と言うか原案として、少女漫画家 萩尾望都の『トーマの心臓』があるのですが、クレジット上にはその名前は載りません。原作を読んでみると、今作は『トーマの心臓』を下敷きとした、一種の翻案なのです。
よく映画の宣伝文句で「5人だけで展開される、衝撃のサスペンス!」とか「3人の世界が……」といった、まるでその人数だけが映画に登場するかのような言い回しをしているものが多いですが、往々にしてそんな事はなく、モブなんかがワチャワチャいるもの。
しかしこの映画、本当に4人しか画面に出てこないのです(正確には、ナレーターの方もいて、その人もきちんとクレジットあり)。
脚本が劇作家でもある岸田理生ということもあってか、けっこう演劇のような作りです。
あらすじ部分を読まれて「んっ!?」と思われたかもしれませんが、そう、本作では10代の少年たちの役を10代の少女たちが演じています。
特に、則夫役を演じた水原里絵は本作がスクリーンデビュー作であり、その後、深津絵里という名前で有名になる女優なのです……(えーっ!)
初見時は一瞬「え、どこだ?」となったのですが、力強い目を見て分かりました。分かった上で、ちゃんと男の子っぽいのです。
ぱっと見、石井隆監督の『GONIN』(1995)に出演した時の本木雅弘に似てるんですよ。
まぁ、両方とも刈り上げ頭で目が大きいために、そう思うのでしょうが。
悠と薫の2役を演じた宮島さんも、遠くから見ると「どこかのお金持ちのおぼっちゃん」に見えて仕方ないし、和彦役の大寶さんもクールな感じの雰囲気をまとっており、「これは女の子人気を独占だな!」と思わせてくれます。
(事実、このblogで挿絵を担当している城間さんは和彦が良いんだそうで)
ただ一人、直人役の中野さんは男の子には見えにくい気がするのですが、役どころを考えると、それも有りな気がしてきます。
「女性が男性の役をする」なんて、舞台ではともかく映画だとコスプレに陥ってしまうのが多々あるワケですが、この作品は題材が題材なだけに奇跡的に上手くいっています。
彼女たちが彼らを演じるからこそ生まれる、キャラクター、及び世界観の純度の高さとか、禁欲的なエロチシズムとか……
このあたりの的確なキャスティングと演出の仕方は、さすが金子監督。


薫が現れることによって、悠の事を思い出さざるを得なくなった3人と、薫の謎、愛が物語の主軸ではありますが、僕がこの映画をここまで愛してしまったのは、この映画の中に流れる「時間」の捉え方に、ひどく心打たれたためでしょう。
この映画は愛の映画です。
しかしそれだけではなく、スクリーンを見ている我々観客がもう戻ることの出来ない「かつて誰にでもあった時間」を思い起こさせてくれます。
僕は小~高校までの友人たちを、友人として愛しています。特に中学時代の友人たちでしょうか。
僕は大分県の田舎で育ったため、小学校の友だちはそのまま中学校の友だちでした。
見慣れた友人たちと、中学校という事でそれまでとは違う校区からも数人やって来て、中学時代を過ごしました。
中学時代が、いちばん物を吸収し、様々な事に悩んでいたように思います。
時に友人、時に敵となった皆。そんな皆と喋り、学び、遊んだ日々。
そんな平穏と激動が混ぜこぜになってやって来ていた毎日を、僕は思い出していました。
特に僕は、将来の深津絵里こと則夫に自分を重ねて観ていたようです。
彼は最年少であることから、他の3人について行こうとしたり、生意気にも口を挟んでみたり、月日の流れを考えて焦ってみたりします。
終盤が始まる頃、4人が花火で遊ぶシーンがあります。このシーンはとても美しく、同時に儚く、今思い出しても胸に来るものがある本作のハイライトとも言える名場面ですが、ここで則夫は突如として独りになります。花火で戯れる3人を目にしながら、これから起こる月日の流れがもたらす別れを感じてしまうのです。
どこか語り部のような役割を持っていた、主軸から外れたように見えていた則夫が、ここに来て
「この作品が持っていた時間」を体現していたんだぁ……となり、観てるこちらは「ううっ、則夫ぉ……」となってしまう始末。
(気持ち悪っ! などと思わぬこと!)


書き出せばキリがない映画です。何処を観てほしいか、と聞かれると「全て!」としか言えません。
キャスト、脚本、世界観、美術、音楽、演出…… そう言えばこの映画、則夫と悠を除いて、
少年たちの声を3人の声優さんがあてています。
薫の声は、今や日本一知られている名探偵、コナン君でお馴染みの高山みなみ。
一声聞いただけで分かってしまうくらい特徴的な声の高山さんですが、この映画の時はまだデビュー1年目。
「薫は高山みなみ」と何度言われても分からないくらいの、(今とは違う)少年声をやっています。
和彦の声は、『AKIRA』(1988)の鉄雄や、TVアニメ『幽☆遊☆白書』(1992~'95)の浦飯幽助が有名な佐々木望さん。
この方は、ある時期を境に声が文字通りガラッと変わった声優さんですが、この頃はバリバリの少年声。しかも、いつもの高い調子ではなく低めのトーンで喋るため、最初は「どれが佐々木さんだ?」と分かりませんでした。
しかし、中盤で3人が行方不明になった則夫を探すシーンで和彦が「則夫何処だ~っ!」と叫ぶところで「あ、これは佐々木さんだな」と思いました(笑)
この人は叫び声が特徴的なのですね。
直人の声を充てた村山博美さんは…… 失礼ながら存じ上げておりませんでした。
リーダー的存在である直人のキリっとした雰囲気を、実に見事にあてておりました。
そして地声で悠を演じた宮島依里さんは現在声優として活躍されており、調べてみるとあんな映画やこんな映画の吹き替えを担当しており、「えっ、『500(日)のサマー』のサマー声やっとんの!?」となりました。

そして何と言っても、この映画を彩る要素で欠かせないのは音楽。
中村由利子さんが演奏するピアノの美しいこと!
本当はこの映画用の音楽ではなく、中村さんの1stアルバム『風の鏡』(1987)を金子監督が「本作にピッタリだ!」と気に入って使ったのですが、見事に作品世界にマッチ。
リマスター版のBlu-ray発売が待たれる今、何度もこの映画を思い出したい僕は、思わず『風の鏡』
をAmazonで買いましたよ。そして、ほぼ毎日ヘビロテで聞いております。ええ、幸せです。


嗚呼、キリがないと書きつつ、またつらつらと書いてしまいました。それだけオススメの映画なのです。
だがしかし! この度のリマスター版上映は終わってしまい、かつて発売されていたDVDも今や廃盤状態。
これから必ず発売してくれるであろう、リマスター版Blu-ray、DVDを共に待とうではありませんか!
そして、是非とも観ていただきたい。きっと、あなたの大切な映画になることと思います。


イラスト:城間典子

第12回 『最前線物語』という名の、もう1つの『この世界の片隅に』。


{はじめに}
この文章は、2017年3月15日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第14回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。
皆さま、ご無沙汰しております。僕は元気です。
なんと、以前の投稿から約4ヶ月も経っていました…… 投稿されるのを楽しみに待っていたという方、お待たせしてすみませんでした。
苦しい言い訳を重ねるのは簡単な事ですが、ここではそんな事は止めにして、ひたすら投稿されなかった分の記事を読んでもらいたいと思っております。
愛想を尽かしてさった方々にも、いずれまた見てもらえるような素敵なblogを書いておこうと思うのです。
そんなワケで今回は、「岩佐悠毅のゴメンナサイ! 怒涛の4連発投稿!」と題して、
夏らしい2本、秋に似合う2本の計4本を連続で投稿します。
つまり1本目は夏らしい作品の紹介なのですが…… これは再録記事です(オイッ!)。


去年は、ノーランの『ダンケルク』やメルギブの『ハクソー・リッジ』といった力作戦争映画が公開された年です。
僕は記事(*以前taomoiya雑文集で、この記事を投稿した時です)の中で『この世界の片隅に』を観ながら、
『最前線物語』の事を思い出していたと書いたのですが、『ダンケルク』を観た時も思い出してしまったのです。
あの映画は「兵士たちの行動のみ」に重点を置いた、今時珍しい戦争映画でした。
あえて今までのような複雑な語りを止め(とは言え、最初のうちは誰が誰で何処でと混乱しかねないですが)、行動のみで語るシンプル極まりない映画になっていて、そこがずっとノーランを苦手としていた僕は「良いな」と思えたのです。
しかし! 『最前線物語』は「行動」だけでなく、「ドラマ」も上手く絡み合って
「兵士たちの日常」を見事に描いています。
何だか、色々比較できて面白いものですね。では、どうぞ。



『この世界の片隅に』が怒涛の勢いだ。映画雑誌で軒並み1位を獲得し、日本アカデミー賞も獲得。
片渕須直監督は先日、上映のためにメキシコに行ってしまった。
(追記:そして今度は長尺版である『この世界の(さらにいくつもの)片隅に』が公開されますね!)
「片隅」どころか、全世界に羽ばたいている『この世界の片隅に』である。
なぜ今回、こんな事から書き出し、思いっきり『この世界~』人気にあやかったかのようなタイトルにしたのかには、勿論理由がある。
あやかっているワケでもないぞ。

『この世界~』公開初日、僕はスクリーンを見つめながら1つの映画を思い出していた。
その映画とは、1980年のアメリカ映画『最前線物語』。
監督は『拾った女』(1953)『殺人地帯USA』(1961)『ショック集団』(1963)『裸のキッス』(1964)
など数々のB級映画を監督してきたサミュエル・フラー。
タイトルがいかにもキワモノ臭い作品が多いが、実際に観てみると社会的テーマを上手く作品のなかに溶け込ませている。
彼は、映画監督になる前はジャーナリストであった。
彼はどの映画においても単に刺激や快感を与えるだけの映画にせず、世界に、とりわけアメリカに対する警鐘を鳴らしていた。
『最前線物語』は、そんな彼の集大成のような映画だ。

第一次大戦を生き延びた、1人の老軍曹(演:リー・マーヴィン)。
彼は第二次世界大戦では「ビッグ・レッド・ワン」=アメリカ第1歩兵師団の分隊長として従軍し、
4人の若い兵士たちと様々な戦場を巡る事となる……

というのが大まかな筋で、この映画において筋運びは大して重要ではない。
この映画は、様々な場所で戦闘を行いつつも何故か死なない軍曹と4人の兵士たちが主人公という、ちょっと不思議な映画なのだ。
多くある戦争映画は、何かしらの主人公たる要素(実際の人物を基にしていたり、ヒロイズム溢れるキャラクターだったり)
があるものだが、この『最前線物語』においてはそんな通常の戦争映画に出てくるような人物たちは皆無に等しい。
それどころか、4人の若者を率いる軍曹は名前すら無い! 非常に匿名性を帯びた存在だ。
北アフリカ上陸作戦、ロンメル戦車軍団との激戦、ノルマンディー上陸作戦(Dデイ)、ベルギーでの奇襲作戦……
この映画で5人は数多くの戦場に赴き、生き残る。
5人だけではままならんという事で、主人公たちの分隊に配属される若い兵士たちが何度か登場するのだが、
彼らはあっけなく死んでいく。
死に際のドラマなんて勿論描写されない。主人公たちの歩む道には、敵味方関係なく多くの屍が転がっている。
かと思えば、あるフランス人農婦が産気づく現場に出くわし、赤ん坊の出産に立ち会う。(コンドームをゴム手袋代わりに使う!)
この映画では、生と死がまさに等しく描かれている。死に関する描写が圧倒的に多いのだが、
それは兵士たちにとって日常的な出来事として描かれる。
『この世界~』の中で、空襲の頻度があまりにも多いため、すずさんたちが辟易するシーンがある。
そこで描かれるのはすずさんたちの日常だが、他の場所では、その空襲で亡くなっている人もいる。
その「主人公の日常と並行して描かれる誰かの死」が、この『最前線物語』と非常によく似ているのだ。
かたや一兵士たちの日常。かたや一市民の日常。
どちらも「戦争」という大きな「流れ」を俯瞰ではなく、個人の視点から見つめている点も特徴的であり、かつ似ている。


ラストにかぶさるナレーションに、こんな言葉がある。
「この戦記は生き残った連中に捧げよう。やっと助かったんだから」
戦争における真の栄光というものは、
重大な任務を達成する事でも、何十人殺した事でもなく、はたまた見事に特攻をやり遂げる事でもない。
生き残る事だ。
戦争が終わった後も、すぐ隣で死んだ戦友たちの分まで精一杯生きる事だ。
サミュエル・フラーは自身の従軍経験を活かし、それを成し遂げた。声高ではない、だが、非常に力強い映画を作り上げた。
この映画はフラーから僕ら未来の世代に対する、遺言のような作品だ。
『この世界の片隅に』を観て感銘を受けた方々は、本作もご覧になる事を強くオススメする。


イラスト:城間典子
(最初に載せたイラストは雑文集掲載時のもの。
次に載せたものが、今回の記事のために描かれたもの。
両方とも、同じ軍曹を描いているのですよ!)

2018年6月29日金曜日

第11回 梅雨時に『山の郵便配達』はいかが?

はじめに}この文章は、2016年5月30日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第6回の文章を再録、ほんの少しの修正をしたものです。

もう6月も終わりですが、再録してまでも皆さんに観てほしい映画があるのです。
あと1~2日で7月がやってきますが、これからも雨は降り続き、じっとりとした湿気が日々を包み込んでゆくことでしょう。
そんな暑くてムシムシな日々に、よく似合う映画です。

*今作の挿し絵は元々カラーで描かれたものでしたが、雑文集掲載時、挿し絵はモノクロでの掲載となりました。
それもまた、墨絵のような雰囲気で作中のイメージとよく合っていましたが、今回のblogではカラーでの掲載をしたいと思います。


6月と言えば、梅雨。
梅雨の時期は、「雨降りでめんどくさいなぁ」なんて思いつつも、濡れた道を歩きながら、いつもと違う風景(特に、森が雨で生き生きしてくる)を見れるから、個人的には好きな時期である。6月こそ、森や山が美しい時期だと思う。
そして6月のイベントとしてもう一つ、それは父の日。

6目の見える距離でいつも忙しいお母さんに感謝する母の日に比べて、目に見えづらい忙しさを持つお父さんに感謝する父の日は、皆さん結構おろそかにしがちではなかろうか(え、そんな事はない? 失礼しました)。
今回は、そんな「美しい森や山々」「父親」というワードがピッタリな、つまり6月にピッタリな映画、『山の郵便配達』(1999)を紹介しようと思う。これは中国の映画なのだが、その感触はかつての日本映画にとても近い。
監督のフォ・ジェンチイは、これが監督第一作目。

ところどころ、荒削りな部分というか、演出が先走っている部分があるような印象も受けるが、とても瑞々しく、何より丁寧だ。
荒削りなところはあっても、雑に撮っていないため観ていて清々しい。


1980年代初期の、湖南省西部の山岳地域。若い男(演:リィウ・イェ)が年老いた父親(演:トン・ルゥジュン)の跡を継いで、山奥に住む人たちの為の郵便配達の旅へと出発する。
だが、相棒であり家族であり道先案内でもある飼い犬「次男坊」が、息子の後をついて行かない。まだ次男坊は、息子が配達人であると認めていないようだ。
父親はきちんと息子に仕事を継がせるため、息子と次男坊と共に、最後の郵便配達へと旅立つ……

 
 
別の国のフィクションの話であるにも関わらず、映画に出てくる風景やそこに漂う土地の匂いを、僕は知っている。
それはきっと、僕の故郷(大分)の風景、かつて旅をした様々な場所、往年の日本映画で観てきたような景色などの色んな土地の記憶が、観ている僕を「懐かしい」と思わせるためかもしれない。
「真面目一筋の仕事人間」だった父親は家にいないことが多く、幼い頃の息子はあまり「父親らしい父親」に触れてこなかった。そのため「父さん」と呼ぶこともままならない。
だが配達の旅をしていくうちに、息子は父親の仕事人としての素晴らしさ、人間臭さに畏敬の念を抱く。
そして次第に、息子は父親に笑顔を見せたり、パイプ煙草をもらって吸うなど、開かれていた心の距離が徐々に埋まっていく。
父親は父親で、息子に優しい目線でもって接する。

仕事の事はきちんと指導するが、その目の向こうには絶えず優しさが見え隠れしている。

配達の道中、一行はトン族という山に住んでいる一族の娘に会う。ちょうど村では結婚式で、村はお祭り状態。
父親が小さな頃から娘を知っているというのもあって、村の結婚式に招かれる。息子と娘が楽しそうに踊っているのを見て、父親は昔の自分と息子をダブらせる。
妻もまた、山に住む民族の娘だったのだ。山の娘と付き合い、結婚し、息子が産まれた。
そんな自分の人生を回想しながら、「息子も、この娘と結婚するのだろうか……」と思っていたに違いない。感傷的(&ほろ酔い状態)になりつつも、ここでも息子たちを優しく見つめている。

川を渡るシーンがある。無理せずに迂回しようと言う父親に対し、息子は大丈夫だと言って、父親を背負って川を渡る。
父親は思い出す。昔、息子を肩車して歩いた時のことを。
息子が幼い頃の、数少ない父と息子の、触れ合いの思い出。
それがいまや、大きくなった息子に背負ってもらっている。
息子の成長に、静かに涙する父親。
ベタながら、やはりここでグッとこないワケにはいかない。
本当に、本当に美しいシーンだ。
 

この映画の父親と息子は、不器用な人たちだ。ウチの場合もそうだが、父親と息子二人っきりという状況は何となく気まずく、言葉少なげになってしまう(そして、心の中でモヤモヤし続ける)。
だから、本音で向き合う機会は滅多にないし、あってもどうすればいいか、戸惑ってしまう。
だがこの二人は、旅の中で少しずつではあるが、お互いを知っていく。
だからこそ、二人は心が通じ合ったのだろう。
終盤では、二人は序盤のような気まずさはなくなっている。
この作品は、映画を通して「人物たちが一歩前に進む話」だ。
先述の川を渡る時も、初めて「父さん」と呼ぶ時も、息子にとっては大きな一歩。
しかし映画は、それらをさりげなく描く。このさりげなさこそ、この映画の持つリズムそのものである。
人物の変化や心が揺れ動く様を大袈裟に描写するのでなく、淡々と、かつ丁寧に撮っているのが、今作なのだ。




最後に……適度な距離感と情感を、この『山の郵便配達』は持っている。
雨降りのために室内でくすぶりやすい6月に、是非とも観てほしい。
もしかしたらこの映画が、あなたに何かのきっかけ(例えば、父親と過ごす時間について考えるとか)を与えてくれるかもしれない……そんな一本なのだから。

イラスト:城間典

2018年5月31日木曜日

第10回 『ライオンは今夜死ぬ』は、決してライオンが死ぬ映画ではなかった……

以前の投稿は2か月前だったのですね……
「月一くらいの頻度」という紹介を止めてしまうか、挿絵担当をメチャけしかけるか……本当にすみませんです。
今回は、そんな2か月前に観た作品を紹介しようと思います。


久しぶりに、劇場で鑑賞した映画について書こうと思う。
日本だけでなく、最近はフランスでの映画作りもしている諏訪敦彦監督と、
フランソワ・トリュフォーの『大人は判ってくれない』(1959)で映画史に刻まれ、
今やフランス映画界の生き字引となった俳優、ジャン=ピエール・レオ―。


 
この二人が初めてコンビを組んだ作品が、今回ご紹介する『ライオンは今夜死ぬ』(2017)だ。
レオ―久々の主演映画である事、以前観ていた諏訪監督の『ユキとニナ』(2009)が良い映画だった事もあって
気になっていた映画だったのだが、その二人の名前くらいしか前情報を知らず、どんな話なのか知らないままの鑑賞となった。
なんせ「レオ―の役=ライオンが死ぬって話なんでしょ」などと思っていたくらいなのだ!




舞台は南仏、コート・ダジュール。
老俳優ジャン(ジャン=ピエール・レオ―)は、「死」を演じることの難しさで悩んでいた。
映画撮影が中断されることとなり、彼はかつて愛した女性ジュリエットの住んでいた古い屋敷を訪れる。
そこでは何と、ジュリエットは昔のままの姿、幻となって彼の前に現れた。
再会を喜び、その屋敷で寝泊まりをはじめるジャン。

ある日、その屋敷で映画を撮ろうとした地元の子供たちがジャンの存在を知る。
最初はジャンを変な老人扱いしていたものの、次第に彼に興味を持ち、「僕たちの映画に出てくれませんか?」と映画撮影に誘うまでに。
ジュリエットの幻という過去と向き合いつつ、ジャンは子供たちとの撮影で忘れかけていた感情を思い出していく……



 
老いた自分と変わることのない女性との日々、かりそめの幸せの中で物語は展開していくのかと思いきや、
10歳前後の子供たちの登場、あれよあれよという間に仲良くなり映画撮影。
先ほども書いたように、どんな映画か全く知らずに鑑賞したため「え、幽霊!?」となったかと思えば「え、映画内映画!?」と二転三転の驚き(大袈裟)をしてしまった。



ジュリエットとの事だけを描いていたら、映画は多分もう少し寂しいと言うか、重いものになったかもしれない。
しかし、そこに子供たちを入れたのが諏訪監督の「らしいところ」と言うべきか。
序盤で登場する映画撮影クルーたちの真面目な態度(そりゃプロだかんね!)と違い、ジャンの事を知らない彼らは「本当に俳優?」なんて尋ねるし、撮りたいもののアイディアを喋りまくる。
彼らに満ち満ちているのは、溢れる想像力と行動力だ。



他の映画だと、老人と子供のジェネレーション・ギャップとか、
仲良くなるにしても異なる世代故の境界線のようなものが多少描かれると思うが、この映画のジャンと子供たちの関係は、本当の意味での同志、共犯関係になる。

子供たちの溢れんばかりのエネルギーに、ジャンも負けじと向き合う。
そうして出来た映画は「みんなの撮りたかったものが詰まっている映画」であり、ジャン曰く「単純だけど、それ故に美しい」作品となる。



 子供たちのシーンは多分に即興演出もあるのだろう、正に見事としか言いようのない活き活きした動きを見せている。
即興という言葉に甘えて自由気ままに蹂躙させるのでなく、ちゃんと演技するところはさせている。
『ユキとニナ』でも感じていた事だが、諏訪監督は子供の演出が相当巧い。
この演出の見事さは、トリュフォーやカサヴェテスに匹敵すると言っても、決して言い過ぎではないはずだ。



映画の序盤で、ジャンは「死とは出会いだと思う」と言っている。
ジュリエットの幻や、子供たちと出会った事によって、ジャンは過去と対峙し、現実を生きる歓びを見出す。
死というヤツも、ふとした時に出会うものなのかもしれない。そんな気持ちをジャンは感じたのではなかろうか。
そんなジャンの顔に、悲壮感はない。
彼の顔には、愛する人とまた会えた喜び、子供たちとの撮影で得た楽しさ、死を自分なりに掴むことが出来た男の覚悟が刻まれている。
そんな彼の姿を観ていると、生きる事、死ぬ事に対して少し前向きになれる気がする。
観た人の心の中にいつでも寄り添っているような、そんな素敵な映画だった。


イラスト:城間典子

2018年3月31日土曜日

第9回 まっすぐな瞳を見つけて……『ぼくと駄菓子のいえ』を観る。

{はじめに}
この文章は、2017年1月15日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第13回の文章を再録したものです。


桜の花が満開になり、明日からはもう4月です。
新しい季節、生活の始まりという感じが、町のあちこちからします。
実は僕も、27日に引っ越しをしたばかり。
とは言っても、前の住んでいた所から10~15分ほど離れただけなのですが。
しかし、えらくのどかな場所でして、日当たりは良くて目の前は畑が広がって…… と、自分語りはこれくらいにして。
今回ご紹介する映画は、そんな新しい季節を迎える僕たちに、気持ちのいい風を感じさせるようなドキュメンタリー映画です。 
 
 
規模の大小こそあれど、駄菓子屋という場所は昔から、子供たちのコミュニケーションの場、情報交換の場、交流の場である。
僕もかつては駄菓子屋で、ただ駄菓子を買うのではなく、たむろして取り留めのないお喋りに花を咲かせたり、駄菓子屋前でカードゲームをしたりしたものだ。
時には仲のいい先輩を捕まえ、駄菓子を奢ってもらうという事もあった。
小学校から物凄く近い所にあったため(ほとんどご近所さんみたいなもんだった)、みんな駄菓子屋に寄るし、遊ぶ時の集合場所にもなった。
今思い返すだけでも、子供にとって駄菓子屋という場所は、切っても切れない縁のある場所であったように思う。

そして、果たす役割も物凄く大きい。
駄菓子屋とは、子供たちにとっての、まず最初に出会う「社交場」なのだろう。
 

今回紹介する映画は正に、駄菓子屋が社交場となっていて、そこに集う子供たちと店のおばちゃんたちとの交流の記録である。
(ところで、駄菓子屋やラーメン屋とかに行くと、その店にいる女の人の事を「おばちゃん」と呼んでしまいたくなる事ってありませんか? いかに年が若かろうと……)




大阪府富田林市にある駄菓子屋「風和里(ふわり)」。
松本明美さんとその娘よしえさんの親子二人で営んでいるこのお店には、学校帰りの子供たちの声で溢れている。
しかしその中には、家庭や学校の問題により居場所をなくした子供たちもいる。
そんな彼らに対し明美さんとよしえさんは、時にはお母さんのように優しく、時には厳しく接していく……



僕がこの映画に好感を持ったのは、監督の視線だ。愚直なまでの、まっすぐな視線。
奇を衒ったりナレーションなどで簡単に済ませるのではなく、撮影する対象とがっぷりと四つに組む姿勢。
カメラもまた、風和里を訪れるお客のような距離感で、お店の中、あるいは外で、彼らの話を聞き始める。そんな映画の作り方。
簡単なようで、実はとても時間と根気のいる姿勢だ。
そのおかげで、キャラ立ちしている人物たちに負けない、シンプルながら力強い映像になっていると思う。
松本さん親子をはじめ、風和里に集まる「問題を抱えた」子供たちもまた、魅力的な人物たち。
特に印象に残ったのは、小5にして親分みたいな貫禄のある、こうせい君だろうか。
彼も両親の問題が元で、心中穏やかではない。
だが彼は明美ちゃん(風和里の子供たちは、皆こう呼ぶ)が大好きで、突然フラッと現れては、シュークリームを差し入れに持って来る。しかも子分みたいな友達を連れて。
何だか、やくざ映画に出るときの高倉健のような、『男はつらいよ』の寅さんのような、不器用さと可愛さを持っている男の子なのだ。

そしてフジタくん。高校をドロップアウトして就職活動に悩む彼を、明美ちゃんたちは献身的に世話するのだけれど…… かまってほしいけど余計なお世話だと、愛憎半ばにも似た感情を明美ちゃんたちに向けているフジタくんの姿は、個人的には他人事に思えない。
彼だけ、僕だけがそう感じるのではなく、それはきっと、皆に宿っている感情かもしれない。
そんな危うい感情の流れも、監督は追いかけている。その徹底ぶりに感心するし、この作品が丁寧な映画である証拠なのだとも思う。


子供たちというのは、本当にナイーヴで、繊細で、孤独な存在だ。どんなに虚勢を張っていても、その裏にある顔は誰かを求めている、居場所を求めている顔なのだ。誰だってそう、皆そうだ。
フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーだって、不仲な両親から逃れるために映画館へと逃げ込んだ。
映画館こそ、トリュフォー少年にとって救いの場所だった。映画は人を救う。
風和里に集まる子供たちも、強がって見せたり何でもないように振舞ったりして見せるものの、やはり誰かの愛情と、「自分がここにいても良い」という場所を欲している。
松本さん親子と風和里は、そんな子供たちにとってかけがえのない存在だ。
子供たちが抱えている問題の解決は、順調ではないかもしれない。

だが、風和里があったおかげで、明美ちゃんたちがいたおかげで、確実に子供たちは前へと進んでいる。
彼らを見て、こちらも元気をもらう。これぞ、映画と観客の良い関係。
『ぼくと駄菓子のいえ』は、観終わった後、心にスーッと気持ちいい風が吹くような、そんな映画です。


イラスト:城間典子

2018年3月1日木曜日

第8回 『愛しのタチアナ』こと、ゆる旅コーヒーの巻。

{はじめに}
この文章は、2016年2月18日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』番外編の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。

『はじまりのうた』に続く「春にピッタリ!? 怒涛の2連発投稿」の次なる作品は、大好きなフィンランドの監督、アキ・カウリスマキ監督の『愛しのタチアナ』です。
この掌編と言ってもいい映画が、大好きなんですよ……まぁ、本文中にも書いてあるとおり、コーヒーと旅がメインだから、という単純な理由が大きいのですが。
そう言えば先日、最新作の『希望のかなた』(2017)を観たのです。素晴らしいの一言でした。
この映画も、いずれ当ブログで取り上げたいと思います。



ドラえもんではないが、「あんなこと良いな、出来たら良いな」などと実生活において思うことはないだろうか。僕は何度となくあるが、中でも「車の中で淹れたてのコーヒーが飲めたら」が実現してほしいこと№1だ。
缶コーヒーでもドライブインのコーヒーでもなく、自分で淹れた、自分のコーヒーをである。
そんな僕の願望を、フィンランドの映画監督であるアキ・カウリスマキが映画の中で実現させていた。

その作品を観たとき、僕は「コレだよコレ!」と感嘆したものだ。
その映画こそ、今回ご紹介する『愛しのタチアナ』(1994)というモノクロのロードムービーだ。


アキ・カウリスマキという監督は、現役で活躍している映画監督の中で一番「人を食った」映画を撮る男である。
原色バリバリのセット、魅力的であろうフィンランドの風景をあえて撮らない、登場人物は始終しかめっ面で感情の起伏に乏しい。
映画の中に必ず1回は音楽の演奏シーンが挿入される(作品によっては、歌いきるまで映す作品も!)。
すっとぼけたユーモアが全編を覆っているが、ただ単に面白おかしいのではなくて、不況や難民といった政治的問題をテーマにしている作品が多い。
そのあまりにもブレない映画スタイルは、数多くのファンが世界中にいる。

『愛しのタチアナ』は62分という短い作品で、愛すべき佳作といった趣きなのだが、「カウリスマキ歴」においては重要な作品でもある。
彼のデビュー作『罪と罰』(1983)から出演し、カウリスマキ映画の看板俳優であり続けた俳優、マッティ・ペロンパーの遺作なのだ。
ちなみにこの愛しき俳優は、見た目がオットセイのような人相なので、彼の出ている作品を一度観てしまえば一発で覚えてしまう、俳優の顔を覚えるのが苦手という人にとても優しい俳優でもある。


物語は、コーヒー中毒の仕立て屋ヴァルトが母と家で仕事をしているところから始まる。
このヴァルトという(一応の)主人公が、只者ではなかった。
ヴァルトはコーヒー豆が切れている事にキレて、あろうことか母親を物置に閉じ込め、彼女のお金を拝借し、家を飛び出すのである。
僕もコーヒー大好き人間だが、いくらコーヒー豆が切れているからといって実の母親を閉じ込めはしないよ。
ヴァルトは修理に出していた愛車を引き取りに、修理工レイノ(これを演じるのが、我らがマッティである)の元へ赴く。そして2人は退屈な日常から解放されるため、車で旅へ出た!

……という爽やかな映画ではない。
初めのうちこそ、ヴァルトは車中で大好きなコーヒーを淹れて飲んだり(ここでドライブ用のドリップ式コーヒーメーカーを用いてコーヒーを淹れるのだ。欲しい!)、レイノはレイノで大好きなウォッカをラッパ飲みしながら喋りまくる。
カウリスマキ映画にしてはご機嫌な幕開けかと思いきや、夜になって2人はすっかり黙り込む。
よし、いつものカウリスマキ映画だ。

2人はある店に立ち寄るが、そこで2人の外国人女性と出会う。
1人はエストニア人の女性タチアナ(この役を演じるは、マッティに次いでアキ組常連の女優カティ・オウティネン)、もう1人はロシア人女性クラウディア。
彼女たちはフィンランドへ出稼ぎに来ていたらしく、ヘルシンキの港まで送ってほしいという。
男女4人のドライブ&恋愛ゲームの始まり……とはならない。
ホテルに一泊することになった4人。
さも当然かというように、タチアナはレイノの部屋へ行き、クラウディアはヴァルトの部屋へ。
2人きりになったからといって、ムフフな感じにならないのはお約束。
食堂に行ってもお金がなく、マズいコーヒーを飲むだけ、煙草を吸うだけ、つまらない話をするだけの殺伐とした状況。
しまいにはレイノが「もう寝る」と言い出す始末。
お互いにとって散々な夜だろう。

結局何もないままホテルを後にし、旅を続け、野宿をする羽目になった4人。
ヴァルトとクラウディアが車中で休んでいる間、レイノは勇気を出して車から離れたところで座っていたタチアナの横へ座る。
するとタチアナ、無言でレイノの肩にもたれかかる。そしてレイノはタチアナの肩にそっと腕を回すのだ!
ホテルの時はロクに言葉も交わさなかった2人だが、ちゃんと心は伝わっていたようだ。
この映画唯一のラブシーンだが、「愛してる」などと言ったり、セッ○スをするでもない、不器用だがそれ故にグッとくるラブシーンだ。


別れる直前、女性2人が最後のお礼にと紅茶とサンドイッチを奢ってくれることに。
最初は男たちを小馬鹿にしていたようでもあったが(主にクラウディアが)、彼女たちは感謝の念を忘れてはいなかったのだ。
いつもコーヒーやウォッカばかり飲んでいる男たちの、微妙な反応がまた面白い。
港へ着いて、さぁお別れ。かと思いきや、心変わりした男2人も車ごと乗船してしまう。

思わぬ、だがユル~く再会した4人。
船上でレイノとタチアナのカップルはより仲を深めていく。
下船し、まずクラウディアとお別れ。彼女はヴァルトに小包を渡すが、これは一体なんだろう?
さて次は、タチアナを家まで送ろう。無事送り届けた男たち。
ヴァルトが帰ろうと促すが、レイノは残って彼女と暮らすと言い出した。しかも作家になるとまで宣言。
な、何故に作家なのだ。そんな伏線今まで1つも無かったがな。
大真面目に言うレイノことマッティ・ペロンパー。とりあえず笑わせてもらいました。

図らずも1人で帰ることになったヴァルト。
誰もいない船内で、クラウディアから貰った小包を開けると、なんと電気式コーヒーミルが。
これはたまらない。
コーヒー好きだから貰って嬉しいのは勿論のこと、ほとんど相手をしなかった女性から貰うなんて。なんて素晴らしい贈り物。
突然、あるお店に車が突っ込んだ。顔を出したのは別れたはずの4人。コーヒーを注文し、テレビに映るロックンロールに見とれる4人。

かと思えば、それはヴァルトの妄想だった。ドライブスルー的なお店のテレビで、ヴァルト1人がロックンロールの映像を見ていたのだった。思い出は彼方に……といった感じか。
家に帰ったヴァルトは、物置から母親を解放し、また仕立て屋の仕事に戻る。

冒頭のシーンに戻った。
だが決定的に違うのは、自分を含め4人でグダグダな旅をしたこと。かけがえのない贈り物を貰ったことである。


観客が「次はこう来るだろう」と思っている予想を、スルッと何食わぬ顔でかわしていくのがカウリスマキ映画の真骨頂であり、この映画も例外ではない。
まぁ、カウリスマキ映画に一般映画のような恋愛シーンを期待したりするのがそもそも間違いなのであるが。
カウリスマキ自身が明言するように、彼は小津安二郎やフランス人監督のロベール・ブレッソンの影響を多大に受けている。
したがって、
台詞が少ない、
フィックスの画、
手や小道具のアップ、
(リアクションのほぼない)俳優たちの顔のショットなどで映画が構成されている。

最初の方でカウリスマキ映画の特徴をつらつらと書いたが、まず第一にこのような映画の作り方をしているということが重要だ。
そのため、俳優たちの何気ない顔や動作に注意がいき、その動きがいちいち面白く感じられる。
意味深なショットを撮っているというよりは、「こういう語り口しか知らないんだよ」と言わんばかりなので、観ているこちらは滑稽に感じるし、彼のこうしたブレない撮り方に安心する。
ハマると一生抜け出せそうにないのが、アキ・カウリスマキの魅力だ。


何故、数ある作品たちの中から『愛しのタチアナ』を今回選んだのかというと、実はたいした理由はなく、観やすい上映時間、基本はすべて押さえてある(カラーではないのが押さえられていない箇所だが)カウリスマキ流映画作り、マッティ・ペロンパーの遺作であること、そして何より「コーヒー」と「車で旅をする」という、個人的にマストなポイントが前面に出ている映画であるからなのであった……

イラスト:城間典子

第7回 『はじまりのうた』を観て、音楽の楽しさを思い出してみるの巻。

{はじめに}
この文章は、2016年6月30日発行の『taomoiya雑文集』に掲載された『映画、めくるめく冒険』第7回の文章を再録したもので、ほんの少しの加筆・修正を加えたものです。

今年に入っての初blogとなりました。読者の皆さん、大変お待たせしました。
本当は違う作品を、1月2月とそれぞれ用意していたのですが、挿絵担当があまりにも多忙のため、絵を描く時間さえ取れず……といった状態でした。

「う~ん、このまま何も更新せずじまいなのは良くない。どうしよう」と思っていたら、何のことはない、過去の文章を紹介すれば良いではないか、と今更気づいたのです。
なので今回は、遅れた2ヶ月分をドドンと投稿します。
3月に突入し、春がそこまで来ていますね。そんな心弾む季節にピッタリの映画を、再録という形ではありますが紹介したいと思います。


音楽との出会いは古本と同じで、いつだって一期一会。
その音楽との出会いによって自分の感情が変化し、人々が繋がり、和解し合い、周りの世界が(少し)変わる。
音楽がもたらす力は、途方もない。音楽は私たちにとって、最もポピュラーで身近な魔法である。
今回紹介する映画は、そんな音楽の魔法によって導かれた人々の映画だ。
その映画とは、2013年のアメリカ映画『はじまりのうた』の事である。



ダン(演:マーク・ラファロ)は落ち目の音楽プロデューサー。
商業的な面よりも、芸術的な面において新人を発掘したかった彼は、とうとう自ら創立したレコード会社をクビになってしまう。
ある日、バーで飲んだくれていたダンは、ステージで歌っていたイギリス人女性グレタ(演:キーラ・ナイトレイ)に可能性を感じ、彼女に「アルバムを作らないか」と持ちかける。


予算もスタジオもない、会社の人間にも取り合ってもらえない、しかし音楽仲間なら多少のツテがある。ダンは言う。「PCと編集ソフト、マイクさえあればどこでも録音できる」と。彼らは、NYのあちこちで演奏、屋外録音でアルバムを制作しようとする。
この一連の録音風景シーンが良い。

防音のためかマイクにストッキング的な物を巻き付けたり、地元の子供たちに協力を求めたり、地下鉄で演奏して警察に捕まりそうになったり、ビートルズのようにビルの屋上で演奏したり。
スタジオの中であるか外であるかだけの違いなのに、見慣れぬ光景故か心地よい違和感。手作り感に溢れていて、とても微笑ましく見える。
(これらの録音風景は、ミシェル・ゴンドリー監督の『僕らのミライへ逆回転』にどことなく似ている。他にもこの映画に近いものを感じるところがあるため、両者は腹違いの兄弟のようにも思える)

何より、彼らがとても楽しそうなのが良い。
音楽は芸術であり商業であり怒りであり癒しであるが、まずもって楽しいものだ。
それを彼らは、アルバムを作っていくなかで思い出していく。
プー太郎状態だった父親に愛想をつかしていたダンの娘も、アルバム制作にギターで参加することにより父を知り、音楽を楽しむ。音楽は人を繋げる。



お気に入りのシーンがある。
身の上話がきっかけで喧嘩をしてしまったダンとグレタ。だがそこでグレタは、ダンがかつて使っていた、2つのイヤホンを繋げて音楽を聴くことが出来るというスプリッターを見つける。
「どんな音楽を?」
「プレイリストは見せないわ」
「プレイリストで人の性格が分かってしまうからね」
「それが恥ずかしいの」
「……見せ合わないか?」

会話の後、2人はお互いの「お気に入りの音楽たち」を聴きながらNYの街を歩き回る。
いつも見慣れてるはずの風景も「音楽の魔法」で彩りのあるもの、意味のあるものに変身していき、2人はついつい踊ったりなんかしちゃったりして!
ゲリラ的に撮られているこのシーンも、何とも生き生きとしていて素敵だ。

人物たちが生き生きしているのは勿論だが、映画そのものが音楽にウキウキして呼吸しているような感じだ。
2人の会話や楽しそうに街を歩くのを観ていると、こっちも「嗚呼、ホントにそうだよなぁ~」と、うんうんと頷いてしまう。

僕もケータイに入っている音楽を聴きながら、色んな所を歩き回るのが好きだ。
(自分だけじゃなく、他の人もそうだろうけどね……)


 気持ちいいドライブにしたい時、ひとりで物思いに耽りたい時、アイディアに詰まった時、どうしようもない時、気分を盛り上げたい時、思い出の曲を聴いて昔を思い出す時、たまたまラジオを聴いている時、大切な人と時間を過ごす時etc……音楽は傍にある。
たとえ聴くためのものが無くとも、覚えていれば自分でも歌える。
音楽は本当に、僕たちが思っている以上に生活に密着しているように思う。
僕はご飯を食べるように映画を観、映画を愛しているけれど、この映画に出てくる人物たちもご飯を食べるように音楽を愛している。

それはきっと彼らだけなのではなくて、僕も、これを読んでいる貴方もそう。
そして音楽のもたらす力と楽しさを噛みしめながら、またきっとこの軽やかで素敵な映画を観るのだろう。


イラスト:城間典子